start = 告発の事実 = == 殺人未遂事件を隠蔽した弁護士らの関与 == === 被告発人岡田進弁護士 === ==== 被告発人岡田進弁護士の国選刑事弁護 ==== ==== 令和2年10月14日に記録した深澤諭史弁護士のリツイートとの対比 ==== === 被告発人被告発人木梨松嗣 === === 被告発人小島裕史裁判長 === === 被告発人長谷川紘之弁護士 === === 被告発人古川龍一裁判官 === === 被告発人若杉幸平弁護士 === ==== 平成6年の人権救済申立書で見た被告発人若杉幸平弁護士の名前 ==== ==== 平成11年2月頃,被告発人大網健二に連れて行かれた被告発人若杉幸平弁護士の法律事務所 ==== == 市場急配センター == === 被告発人松平日出男 === === 被告発人池田宏美 === ==== 被害者安藤文さんの家に電話を掛けるなと言った被告発人池田宏美 ==== やはり,これが津幡町能瀬からの電話だったと思います。いや,ちがうかもしれません。津幡町能瀬からの電話では被害者安藤文さん本人が電話に出ており,被告訴人池田宏美の話は,今考えると側に本人がいたとは考えにくいものです。 「広野さん,あの子の家,電話掛けとるやる。絶対やめときなさい。」と被告発人池田宏美は言いました。「あの子,彼氏おるんやし」とも言ったように思います。 「どうしても電話掛けたいんやったら,わたしんとこ掛けてきなさい。」とも言ったように思いますし,「さみしいんやったら」とも言っていたように思います。 なんとなく思い出すのは,最初に被告発人梅野博之が電話に出で,被害者安藤文さんを出そうとしなかったので,私がいくらか強く彼女を電話に出すように言ったところ,被告発人池田宏美が代わって電話口に出たような状況です。 ==== 被害者安藤文さんのことで,「可哀想な子や,可哀想な子やと思っときなさい」と言った被告発人池田宏美 ==== 七尾市で荷物を積んで出発した後,小杉インターから北陸自動車道に乗り,すぐ先にある呉羽パーキングエリアからの電話です。時刻はだいたい17時30分頃と思いますが,外はすっかりと暗くなって夜と同じでした。 余りはっきりとは思い出せないですが,被告発人池田宏美の場合,17時30分頃はだいたい会社にいたように思います。18時頃までいることもさほど珍しくはなかったと思いますが,19時以降というのはほとんど見たことがなかったと思います。 これは昼に掛けた津幡町能瀬からの電話の続きのような内容です。これも記憶がはっきりしませんが,現在の中能登町鹿島の辺りからも会社に電話を掛け,被告発人池田宏美と話をしていたかもしれません。 「広野さん,あの子にかまわんときなさい。今あの子に会社やめられたらほんと困るげんてぇ。」というようなことを言われたのですが,津幡町能瀬からの電話だとすると,被害者安藤文さんが電話に出ているので,側で被告発人池田宏美の悲痛な声を聞いていたことになります。 そういう被告発人池田宏美の声を聞いていたような被害者安藤文さんの態度ではなかったので,やはり別に機会の電話になると思います。本当は全く別の日とも考えたのですが,呉羽パーキングエリアからの電話での,被告発人池田宏美の発言と整合があるのはこの日のことです。 先月,8月の初めになると思いますが,車で金沢への買い物に連れて行ってもらい,富山県小矢部市のアウトレットに買い物に行ったのですが,そこから雨晴海岸で写真撮影などしたあと,氷見市を通って七尾市に向かいました。 氷見市からは氷見警察署の前を通った後,いくらか引き返すかたちでインターの乗り口を探し,のと里山街道につながる自動車専用道路に乗りました。インターは途中で降りて,七尾城趾の見晴台まで行ったのですが,高岡市から七尾市までずいぶんと距離があると感じました。 途中までが高岡市から七尾市まで通じる国道160号線ですが,昼に通ったのは平成4年3月以来のことになります。一度,平成10年辺りに,宇出津の実家に何かを取りに行く用事の帰り,夜中に国道160号線で高岡市から金沢市に戻ったことがありました。 国道160号線はのんびり走れる道路で,七尾市内から北陸自動車道の小杉インターまでも割合早かったという印象がありました。能登木材と林ベニアのいずれかの荷物でしたが,市場急配センターでは11月辺りから一番多い仕事のパターンだったと思います。 呉羽パーキングエリアから電話を掛けると,被告発人池田宏美は機嫌の良い声で,被害者安藤文さんが納得をして帰ったという趣旨のことを言っていました。納得と言うよりは安心あるいは安堵がそれに近かったと思います。 被告発人池田宏美は口も達者でしたが,抑揚の表現力もあり,まるで劇団の役者のようでした。今が4回目の結婚とかで,初めの頃は四国の徳島などに住んでいたと話すことがありました。まだ私が金沢市場輸送にいた頃に聞いた話だったかもしれません。 基本は金沢弁でしたが,ときおり他の地方の言葉が混じっていると感じることがありました。長距離トラック運転手の仕事をしていたので,いろいろな地方の言葉は聞いていましたが,地域を特定できるように感じることはなく,個人的な話し言葉の癖なのかとも考えることはありました。 「あの子,わかったって帰った。」というような言い方だったと思います。優しく安心感を与える話しぶりでした。しかし,そのあとに続けた被告発人池田宏美の話が,どうなっているのかと混乱を招かせるものでした。 「可哀想な子や,可哀想な子やと思っときなさい広野さん。あの子,会社でしおらしいしとるやろ,でも友達との電話の話とか聞いとったら,がんこなこといっとるわ。」ってな話でした。 「しおらしい」という言葉は,その場で余りはっきりと聞き取れなかったのですが,他に,「なんもわかっとらんげんて,あの子」ということも言っていたと思います。被告発人池田宏美の声と話しぶりは,これも熟練の役者のような聞き取りやすさがありました。 金沢市場輸送にいる頃から,被告発人池田宏美のことは,話し上手だけど余り信用のおけない要注意の人物と思っていました。女の直感という言葉を聞くことがあった時代ですが,私の妻が,「あの人,怖い感じする。」と言ったのも印象的でした。 被告発人池田宏美については,要領が良く利発という印象もありましたが,時に私の方で,警戒しすぎて偏見があるのかもしれないと考えさせられることもありました。言うときはズバッと言うタイプだったので,迫力や威圧感のあっただろうと思います。 そういえば書いているうちに思い出すことがありました。 === 被告発人梅野博之 === ==== 平成3年12月13日の金曜日の夕方 ==== この日の夕方,私は初めて被害者安藤文さんに声を掛けようと思い,裏駐車場に駐めた自分の軽四の中で彼女を待ちました。裏駐車場でも入って右手の一番手前の方になります。彼女の車の横に駐めていたと思います。 長くて18時頃まで待ったと思いますが,彼女が出てこないので諦めて帰りました。その間,2回,あるいは3回だったと思いますが,私の車の横を被告発人梅野博之が歩いて通りました。まるで私を警戒した見回りのようでもあり,被害者安藤文さんに気を遣い様子を見に来た感じでした。 被害者安藤文さんの裏駐車場の行動が始まって初めての対応でした。彼女の望みや要求に応えたつもりだったのですが,このときも被告発人池田宏美や被告発人梅野博之が彼女によからぬことを吹き込み,不安にさせた可能性が大です。 しかし,それでも当時は,その日が13日の金曜日だったということで,彼女がその日に会うことを忌避したとも考えました。当時,かなり若者に影響を与えていたと思われるホラー映画のことです。私自身は気にしていなかったですが,彼女の年頃だと気にすることもあるのかと考えました。 ==== 河北郡津幡町能瀬からの電話に出た被告発人梅野博之 ==== 近くに能瀬という地名の標識か看板がありました。ずいぶん古い繊維工場の跡地のような印象が残っているのですが,そこにある小型の電話機をアクリル板で囲っただけのような電話ボックスから会社に電話を掛けたと記憶にあります。 これも余りよく思い出せないのですが,電話に被告発人梅野博之が出て,優しく被害者安藤文さんをかばうような素振りを見せていました。他に被告発人池田宏美も出たように思うのですが,何度かかけ直した電話に被害者安藤文さん本人が出ました。 言葉で表現するのは難しいのですが,このときの被告発人梅野博之の態度は,なんともいえない微妙なものがあり,強く印象に残っています。 倉庫移動という会社の指示で行った北陸ハイミールで会社から電話が入り,急遽,七尾市に向かったときでした。ああいうことは後にも先にも他になかったですが,計算されたものがあったと思います。被害者安藤文さんとの関係も微妙な時期でした。 そのあとのことは,現在の中能登町鹿島の広くなった道路で,七尾市に向かって左側に中西運輸商の大型トラックが駐められているのを見たことが,けっこう印象に残っています。 七尾市での荷積みの作業などは記憶にないのですが,次に記憶にあるのが,別に記載する被告発人池田宏美の電話対応になります。 確認には至らないのですが,このときの運行の行き先は,山梨県だったと思います。これもけっこう印象に残る運行でした。2カ所降ろしだったと思います。 国道20号線から静岡市に向かう国道52号線に入って,しばらく走り,右手に入った集落と記憶にあるのですが,Googleマップで見ると,その辺りは現在,南アルプス市となっていて,見覚えのある地名は見当たりませんでした。 山梨県内は,国道20号線と中央自動車道の通過ではよく通っていましたが,荷物の積み下ろしをしたのは初めてだったのでそれも印象的に憶えているのですが,集落の雰囲気も独特なものを感じたと記憶にあります。 これははっきりしている記憶ですが,山梨で七尾市からの荷物を荷下ろしした後は,東京に向かいました。どの時点で決まったのか記憶にないですが,東京に向かう時点で,翌日の池袋の三越デパートからの展示会の引き上げの仕事が決まり,指示を受けていたはずです。 === 被告発人安田繁克 === ==== 松浦さんの愛人の息子として入社した被告発人安田繁克(平成元年9月?) ==== ==== 被告発人安田繁克と被告発人大網健二との接点(平成2年春か秋) ==== ==== 中古のBMW ==== 余り具体的な話として聞いていなかったと思うのですが,後に被告発人大網健二は,被告発人安田繁克と思われる男が,中古車販売の話し合いをする喫茶店に彼女を同伴させていたと私に話しました。その車というのが中古のBMWになります。 私は1,2回,金沢市場輸送の駐車場でそれらしいBMWをみています。洗車機の横辺りと思いますが,駐車場でも奥の方に他の車と横に並んで駐車されていました。スポーツタイプに見えたBMWですが,ずいぶん古いもので,遠目にもかなりのポンコツに見えました。 私が小学校6年生の頃になると思いますが,スーパーカーブームというのがありました。その1,2年後になるのかもしれないですが,週刊少年ジャンプに「サーキットの狼」という漫画の連載がありました。ちょうどその頃に玩具屋のプラモデルでみたBMWの型になります。 * 907:2020-09-10_13:35:30 * 《参考資料》昭和50年代初めのスーパーカーブームと週刊少年ジャンプの連載「サーキットの狼」,その当時のBMW https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/133528 被告発人安田繁克の名前を知ったのは,平成3年6月22日頃になるかと思います。被告発人安田敏と同じ名前と知ったのも,市場急配センターに掛けた電話で,電話口に出た被害者安藤文さんが「どちらの安田ですか?」と聞き返したからです。 なお,この電話の少し前に私は被告発人安田繁克と会って話をしており,そのとき被告発人安田繁克は市場急配センターをやめており,フリーで仕事を請け負っているなどと話していました。ただ,その話をした場所が,今思い出せなくなっています。 中古のBMWの売買の話は,これも被告発人大網健二から聞いていて,直接名前など聞いていなかったはずですが,私は被告発人安田繁克のことに間違いがないと思いながら話を聞いていました。 あとで考えると芝居じみた不自然な点も感じられるのですが,似たような話で不自然さが際立ったのが,別の項目として取り上げる,笹田君のことです。これには被告発人安田繁克と親しくしていた可能性もあるS藤も絡んできます。 ==== ほぼ同じ頃に入社した西口君と名古屋の元暴力団員S藤 ==== /告発の事実/市場急配センター/被告発人安田繁克/松浦さんの愛人の息子として入社した被告発人安田繁克(平成元年9月?)/ほぼ同じ頃に入社した西口君と名古屋の元暴力団員S藤 西口君は,金沢市場輸送の古参運転手,山田さんの娘婿あるいは婚約者として,被告発人安田繁克は堂野さんの愛人の息子として,ほぼ同時の入社となり,盛り上がった話題となっていました。平成元年の9月頃と思うのですが,あるいは昭和63年かもしれません。 秋口というのか9月頃というのはなんとなく憶えています。名古屋の元暴力団員S藤も同じ頃と思うのですが,同じ頃だとすると昭和63年になると思います。これは被告発人松平日出男の登場とも近い時期でした。 同じ頃に,被告発人松平日出男とは中古車購入の話をし,被告発人松平日出男が金沢市場輸送に新型車のカリーナを私に試乗させるために持ってきたことがあり,同じ頃,S藤とは,彼が乗っていた400CCクラスのオートバイの話をしたと記憶にあります。 私はかなり長い間,被告発人安田繁克の母親の愛人を堂野さんと思い込んでいました。なので松浦さんが母親の愛人と知ったときは,かなり驚き,自分の勘違いを恥辱のように思っていたのですが,最近では勘違いではなく,そのように吹き込まれていた可能性を考えるようになっています。 堂野さんの場合も金沢市場輸送や市場急配センターの社員ではなかった可能性があるのですが,イワシのシーズンも終わりに近づいた頃に,イワシ運搬のダンプの持ち込み運転手として仕事をするようになりました。 これは私の2度目のイワシの運搬だったので,2月頃というのは平成2年になります。これだと被告発人安田繁克の入社も平成2年になります。堂野さんが先に仕事をするようになっていたことが前提になるからです。 堂野さんの愛人の息子と聞いた被告発人安田繁克ですが,これも主に金沢市場輸送の輪島の運転手に聞いたと印象にあります。一人を除き,大型保冷車の運転手で主に鮮魚を運んでいました。仕事上の接点は考えられないのですが,夕方に麻雀を堂野さんがしていたのが,知り合うきっかけとは考えられます。 私の知る範囲で,堂野さんが鮮魚の仕事をしたことはなかったのですが,配車係の本恒夫社長が無理な配車をして,たびたび自分で運行に出ていると聞いており,堂野さんにも頼んだことがあったのかもしれません。 頼むとすれば東北便ですが,鮮魚だけではなく練り製品など扱う種類が多く,慣れないと出来る仕事ではなかったと思います。可能性として輪島の運転手に堂野さんの協力を頼んだとは考えられ,それで親しくなったとは考えられます。 実際に聞いた話ではないですが,東北便の荷物だけを堂野さんに運んでもらい,金沢中央卸売市場に待機した輪島の運転手が,率先して荷降ろしの手伝いをし,荷降ろしの完了後には,堂野さんのおごりで酒を飲んだことも想定は出来るところです。 私としては堂野さんとは一緒に食事をしたこともなかったと思いますが,松浦さんには食事に連れて行ってもらい,おごってもらうこともありました。一つ強く印象に残っているのが,金石のバスターミナルで,廃車になったバスが焼き鳥屋になっていたと思います。夜遅くに行きました。 そのときに見た,松浦さんの指輪も印象に残るもので,銀色で大きな平面上の指輪でした。それと同じような指輪を平成3年3月に被害者安藤文さんがつけているのを見たのですが,3月5日は細い指輪で,清水市行きのミールを積んだ日が,その指輪だったと思います。 記録には記憶も清明な状態で繰り返し記述していると思いますが,イワシの運搬は昭和63年12月から始まった1回目と,平成元年12月から始まった2回目でメンバーががらりと変わっていました。同じだったのは松浦さんと私だけだったと思います。 繰り返しますが,堂野さんの愛人が入社する,あるいは入社したという話を聞いた頃,一度,被告発人安田繁克の姿を近くで見ているはずなのですが,その後,会社で姿をみることは少なかったと思います。 特に,一番,運転手の集まる夕方の時間帯に被告発人安田繁克の姿を見たという記憶がない気がします。笹田君と峰田君は,割とちょくちょく,仕事が終わった後も金沢市場輸送の運転手の休憩室で,ぶらぶらとしていました。テレビを見ることもあったかもしれません。 被告発人安田繁克のことではっきり印象にあり,直接,言葉を交わしたのが2月頃のことでした。たぶん平成3年になると思うのですが,これもまだ記憶が清明だったときに記述したものがあると思います。 午前中,金沢市場輸送の駐車場には雪が積もっていて,市内配達の2トン車だったと思いますが,被告発人安田繁克がスリップをさせて動けなくしていたので,運転を代わり,雪の轍から出したということがありました。 ワンデフの大型車は雪道に弱く,新潟や東北の豪雪地帯もよく走るので,こつのようなものはつかめていました。上り坂の雪道でいったん停車すると,そのまま発進できないことも普通にあったので,乗用車の運転とは比較にならず難しいものがありました。 西口君は,当初より新車の4トン保冷車の持ち込み運転手となっていましたが,やはり山田さんの存在が大きいという話でした。山田さんは途中で名前が山田さんに変わったのですが,古参といっても昭和59年の10月にはいなかった運転手で,昭和61年の8月にはいたはずです。 西口君の4トン保冷車は新車で,それもフルモデルチェンジをして間もない頃の日野のトラックだったと思います。運転手の間で話題になることはなかったですが,日野の4トン車はモデルチェンジ前の昭和59年当時の車種も同じで,英語でレンジャーという名前があったと思います。 平成3年には1月と10月に2回,日野の大型車の新車に乗務をしていますが,その当時のことは記憶にないものの,昭和59年当時の金沢市場輸送の新車の日野の大型車が,ドルフィンという名前であったことはよく憶えています。平成3年10月もフルモデルチェンジにはなっていませんでした。 * 908:2020-09-10_14:59:57 * 《参考資料》日野レンジャー 4代目(1989年〜2001年) https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/145955 「1989年7月登場」とありました。平成元年7月です。西口君とも会う機会は少なかったと思うのですが,その4トン保冷車で仕事をする姿は見かけていました。早い段階で話もしていると思うのですが,同じ能都町の瑞穂の出身で,金沢市の尾山台高校を卒業したと聞きました。 この西口君も平成3年の秋から私の前に姿をあらわすようになり,被告発人多田敏明とともに工作活動っぽいことをやった形跡があり,私に被害者安藤文さんに関する偽りの情報を吹き込んだ可能性もあります。 S藤ですが,最初に姿を見た頃にバイクの話などして,それから長い間,姿を見かけずにいました。市内配達の仕事をしているとは聞いていましたが,仕事をする姿を見ることはなかったような気がします。そして久しぶりに姿を見たのが,平成元年12月のことでした。 これが被告発人大網健二と笹田君の車の売買を巡るトラブルになります。 ==== 長く勘違いしていた,入社のきっかけとなった被告発人安田繁克の母親の愛人 ==== すでに書いていることですが,私は長い間,被告発人安田繁克のことを堂野さんの愛人の息子だと思っていました。実際は,堂野さんを金沢市場輸送のイワシの運搬の仕事に紹介した松浦さんの愛人の息子だったのですが,この間違いにいつ気がついたのか現在思い出せなくなっています。 繰り返し愛人と聞いていたのですが,松浦さんは金沢市場輸送で仕事を初めてすぐの頃,若い妻が家出をしたという話でした。それでも1度は,その妻という女性の姿を金沢港のイワシの仕事の現場で見かけています。髪が長く,顔ははっきりわからなかったのか,印象に残っていません。 離婚をしたとは聞いていなかったので,新たに入籍も出来ず愛人となっていたのかもしれません。近年は愛人という言葉自体を見かけなくなっていますが,平成の前後にはテレサテンの「愛人」というヒット曲もあり,身近によく聞くような言葉ではありました。 当時,松浦さんは45歳ぐらいと聞いていたように思いますが,妻は若く,20歳過ぎかあるいは10代と聞いていたかもしれません。子供が二人いてどちらも男の子ですが,上の子は昭和61年生まれの私の長男より1つほど年上と聞いていました。下の子は,まだ満足に話が出来ない年頃でした。 私が市場急配センターで市内配達の仕事を始めたのは,平成3年の6月23日になります。私の記憶では5月だったのですが,金沢市場輸送の運行表に6月分の運行記録がありました。 母親を通じて金沢刑務所の拘置所に差し入れられた一部だったのか,頼んでいなかったはずの,金沢市場輸送の運行表があり,疑問に思いました。あるいは,斐川雅文弁護士から郵送で差し入れがあった一部になります。 感覚的に一月ほど先に被告発人安田敏は金沢市場輸送で市内配達の仕事を始めていましたが,すっかり打ち解けた様子でした。すぐに繰り返し聞かされたのが,大野君のことです。被告発人安田敏は私に,当時16歳という大野君のことを堂野さんの愛人の息子だと話していました。 当時はそれほど深く考えなかったと思うのですが,被告発人安田敏は堂野さんのことをよく知る人物のような口ぶりでした。堂野さんは金沢市場輸送の社員運転手ではなかったはずで,会社に来ることも少なかったと思うのですが,考えられるのが金沢市場輸送での夕方以降の麻雀です。 しかし,朝早く夕方早めの時間に仕事が終わる市場急配センターの市内配達の仕事をしていた被告発人安田敏が,夕方に金沢市場輸送の事務所に行くとは考えられず,被告発人安田敏が麻雀の話をすることもなかったと思います。 私が見たのは一度だけだったと思いますが,群馬県の中国化薬に,堂野さんが金沢市場輸送の大型トラックで荷物を運んできていました。ウィング車だったと思うのですが,なぜか平ボディ車を見たような記憶になっています。荷物が爆弾か魚雷だけに,シートを掛ける平ボディ車とは考えにくいのですが。 他にも金沢市場輸送の長距離の仕事をしているような感じでしたが,ミールやダンベを運ぶのも見たことがなかったと思います。持ち込みのダンプも,一般の土砂積みのダンプに比べかなり小型に見えました。 古い型の三菱ふそうの大型車だったと思います。色がバイクの塗装のようなワインレッドで,色の具合で小さく見えるとは考えていましたが,普通の大型車のキャビンには見えなかったと思います。 10トン車と6トン車の間に別の大きさの車種はなかったと思うのですが,そもそも何を運んでいたのか不思議なダンプでした。土砂積み禁止のダンプになっていたと思いますが,通常,土砂積み禁止のダンプは木材チップなど軽くてかさばるものを運ぶので,車体は大きくなる傾向がありました。 大野君は大人しく無口でしたが,体の大きな少年でした。仕事中もヘッドフォンをつけて曲など聴いている様子でした。何度か市内配達で同乗させたことがあるのですが,話しかけると割合,普通に話していました。 夏休みになると高校生の大野君の友人も,市内配達のアルバイトをするようになり,彼も同乗させることがありました。名前は今も憶えていますし,なんとなく姿や顔も記憶にあるのですが,細身で割と背が高く,大人しく素直な少年でした。 被告発人安田敏がやたらと積極的に,私にこの堂野さんの愛人の息子という大野君の話をしていたのですが,堂野君の家は,金沢市内の涌波だと言い,安田敏が住む花里のすぐ近くになります。アルバイトの少年も家が近くと聞いていましたが,どの辺りに家があるのかは,聞かなかったように思います。 この涌波には,ウェルマートというスーパーがあり,近年出来たスーパーで,私の知る範囲で他に,保古店と,玉鉾店があったと思います。保古店には,東力2丁目のアパートから買い物に行くこともありました。ただ,平成9年頃には全滅をしていたと思います。 他に,七尾市に本部を置く,昭成会という暴力団の組事務所がありました。大通り沿いで周囲はほとんどが住宅地だったと思いますが,特に問題になっているとは聞いていませんでした。珠洲市のKという被告発人安田敏の友達が所属したのもこの事務所だったと思います。 珠洲市のKに最初に会ったのは昭和58年の秋頃のことでしたが,昭和61年の12月に被告発人安田敏が私のアパートに訪ねてくるようになった頃は,暴力団員になったといい,被告発人安田敏はそのKから借りてきたというカマロという大型のアメリカ車に乗ってくることもありました。 たぶん,その後も付き合いはあったと思うのですが,平成3年には珠洲市のKの話を,被告発人安田敏がすることはたぶんなかったと思います。珠洲市のKと被告発人安田敏の間には,他にもいくつか接点があったのですが,その辺りも記録には洗いざらい徹底した記述してあります。 被告発人安田敏の花里のアパートについても,Googleマップで場所を確認しておこうと思いながらやっていませんでした。前に官舎があったので,たぶん今でも場所の特定はできそうに思います。 * 909:2020-09-10_16:38:39 * 《参考資料》被告発人安田敏の平成3年当時の花里のアパートと,金沢市涌波周辺 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/163837 堂野さんの愛人のことですが,大野君の話を聞く前に,母親とは会っていました。大同生命だったと思いますが,生命保険の勧誘で,堂野さんが引き合わせたのが,その女性だったからです。時期は春か秋だったと思います。 堂野さんが勧誘をする前に,生命保険外交員の女性から私の妻に接触があった様子でもありました。東力のアパートの駐車場に堂野さんが車を停め,車の中で待っていた様子が記憶にあります。女性が一人でアパートの中に入り,契約の手続きをしたように思います。 妻から何度かその女性の名前は聞いていたのですが,余り話をしなかったと思います。生命保険の加入も不本意でした。たぶん同じ頃になると思うのですが,堂野さんに頼まれて,寺中町まで車で送ったことがありました。涌波とはかなり離れた場所です。これもマイマップに追加しておこうと思います。 * 910:2020-09-10_17:17:00 * 《参考資料》堂野さんを送った寺中町の大体の場所と,同じ寺中町の中西運輸商の事務所,それと近くの金沢西警察署 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/171658 堂野さんの乗用車というのは見た記憶がなく,東力のアパートに来たときも,保険外交員の女性の車を運転しているような感じでした。堂野さんについては,どこに住んでいるのか,また,家族のことも話を聞くことはなかったように思います。妻子がいるような話も聞いていなかったと思います。 堂野さんを金沢市場輸送に引き入れた松浦さんですが,元暴力団員で,いかにもそれらしい雰囲気で,昭和の時代の仁義なき戦いの映画の感じでした。一度,本当にその時代の映画に出てくるような,古いポンコツのベンツに乗って,乱暴な運転をする様子を目の当たりにしたことがありました。 大野という女性の名前は聞いていたと思いますが,保険の契約をした当時,堂野さんの愛人とは聞いていなかったかもしれません。ただ,堂野さんの妻と考えることはなく,それは大野という違った名前を聞いていたからだと思います。 堂野さんと最初に会ってから,生命保険の契約まで半年ぐらい間があったように思います。暑くもなく寒くもなく過ごしやすい季節だったと記憶にあるので,やはり平成2年の秋になりそうです。その後,大野という女性に会うことはなかったと思いますが,どこかで一度,顔を合わせたような気もします。 ==== 被害者安藤文さんを市場急配センターに紹介したともされる,笹田君と峰田君 ==== この二人は,私の判断で実名としますが,事案解明の鍵を握るかもしれない人物であります。ほぼ同時期の入社でいつも一緒に行動をしていた二人です。入社の時期ははっきりしませんが,金沢市場輸送の事務所が西念町リの1にあったとき,事務所が一つだけの頃はまだいなかったと思います。 高田さんが市内配達の責任者で,金沢市場輸送以外にも石川日通,小林運送などが市内配達をしていた頃のことです。高田さんが竹沢俊寿社長を激怒させるかたちで失踪し,それからまもなくだったと思いますが,同じテナントビルの並びにもう一部屋賃貸したらしく,市内配達の社員がそちらに移りました。 被告発人梅野博之が代行の責任者をやっているという話も聞きましたが,余り姿を見かけることはなかったと思います。興味本位に部屋を覗くと,決まって女子事務員が一人いました。名前を出すつもりはないですが,ちょっと思い出せなくなりました。半年ほど前には憶えていたはずです。 大西真さんのおごりで片町に飲みに行ったとき,被告発人池田宏美と一緒にいた女性です。20代後半と聞いていましたが,ずいぶんと落ち着いていて,かなり年上に感じていました。 金沢市場輸送の事務所が二口町に移ってからもしばらくはいたと思いますが,姿をみなくなったあと,社員運転手Tさんとの不倫関係で首にされたという話を聞きました。二口町に移ったのは昭和63年の7月の初めと記憶しています。なぜか7月の初めということをしっかり憶えています。 それから金沢市場輸送の長距離と市内配達が,また同じ事務所と運転手の休憩室となったわけです。これは平成2年の春,市場急配センターの新事務所が出来るまで続きました。 笹田君と峰田君の姿を見るようになったのも,その二口町の事務所に移ってからだと思います。そういえば,少し思い出したのですが,大久保くんの場合は,逆に二口町に事務所が移ってから姿を見なくなったかもしれません。 大久保という名前もはっきりとは憶えていないのですが,ありふれた名前ですし,一応そうしておきます。石川日通の運転手だった,こちらも名前が思い出せないですが,確か私の一つか2つ年下で家が小立野にあると聞いていましたが,その運転手の後輩として金沢市場輸送に入ったような話を聞きました。 その大久保君が笹田君や峰田君と彼女の交換をしていたという話を被告発人多田敏明から吹き込まれたと思うのですが,被告発人多田敏明というのは,金沢市場輸送と市場急配センターが同じ事務所だった頃には姿を見ていなかった運転手なので,なぜ大久保君の名前をしっているのか不思議でした。 そして同じ頃,被告発人多田敏明に,被害者安藤文さんを市場急配センターに紹介したのが笹田君か峰田君と聞かされたのです。どちらかはっきりしないのは,私の記憶がはっきりしないためです。たぶん峰田君と聞いていたと思うのですが,確信は持てません。 笹田君と峰田君の年を19歳と聞いていた記憶があるのですが,それは平成4年の2年ほど前のことで,被害者安藤文さんと同じ年と聞いたように思います。被害者安藤文さんは8月生まれで,平成4年の誕生日を迎えるまでは21歳でした。昭和45年生まれです。 とにかく笹田君と峰田君は会社にいるときいつも一緒にいました。何度か直接会話をしたことがあったのですが,二人とも家は金石と話していたように思います。金石は金沢港の近くでもありますが,犀川の河口に金石港があります。大野とも隣接していますが,北前船などの古い歴史があるところです。 といっても金石は広く,金沢西警察署に近い辺りほど住宅地が多い感じでした。昭和56年当時は,暴走族が多いとも聞いた金石ですが,平成4年当時は,金石海岸がナンパのスポットともなっていて,金沢西警察署の警察官も「ちゃんかい」と読んでいました。方言を直すと「セックス街道」のようなものです。 昭和58年当時,「ちゃんぺ街道」のような露骨な表現はなかったですが,ナンパのスポットは繁華街の片町から少し離れた香林坊から南町でした。夜にその辺りを若い女性が歩いていると,ナンパされるのを目的にしているとみなされ,声を掛けられていたものです。 被告発人安田繁克は暴走族のリーダーだったとも聞いていましたが,2月1日の夜にグループ名を尋ねると,「狂走恋命」だと言っていました。昭和56年頃にも暴走族の落書きとして見かけていたものですが,具体的な暴走族のグループ名としては聞くことがありませんでした。 被告発人多田敏明も暴走族に入っていると話していました。平成4年に入ってからではと思いますが,新聞に暴走族の死亡事故のニュースがあり,当日だったと思いますが,昨夜の死亡事故は自分も参加した集団暴走と話していました。金沢東インターの近くで福久が事故現場になっていたと思います。 仲間が事故を起こしたのを置き去りしたという話もありました。トラックの仕事で夜に運転をすることも多かったですが,平成3,4年頃には,暴走族は余りみなかったと思います。長距離も同じでしたが,昭和57年の9月から12月に名古屋の港区にいるときは,逆走する大きな集団暴走を見ていました。 なお,被告発人安田繁克も被害者安藤文さんと同じ21歳で,そのとき被告発人多田敏明は19歳でした。2つ年下になります。被告発人安田繁克は,被害者安藤文さんが泉中で,自分が高中だったので,話をしていたとも言っていました。高中は,高岡中学校のことです。 金沢市立高岡中学校 - Wikipedia https://t.co/pcjdTjyjXC 石川県金沢市新神田1丁目10番1号 被告発人安田繁克の家が東力,被告発人多田敏明が間明と聞いていました。供述調書で被告発人安田繁克の住所を見たのだと思いますが,その後の大型書店が出来た駐車場の前辺りに家があったようです。入江の交差点の近くにもなりますが,平成4年当時は何があったのかよく憶えていません。 笹田君と峰田君に関しては,他にも話を聞いたことがありました。守田水産輸送の古参の運転手で松ちゃんと呼ばれていた人ですが,同じトラックの中で話をしていたとき,二人とも自分の息子の親しい友達だと話していました。 ただ息子といる家は,金石ではなく金沢港の近くと話していたように思います。金沢港でも戸水町の辺りと聞いたように思います。これも記録には記述したことがあると思います。 少し思い出したのですが,大久保君や笹田君と峰田くんが彼女の交換をしていたという話は,被告発人多田敏明ではなく,被告発人梅野博之の口から出た話かもしれません。あまりはっきりとは思い出せないのですが,これも記録には,しっかりした記憶で記述したものがあるはずです。 なお,被告発人梅野博之の入社は昭和61年12月頃になると思います。被告発人池田宏美と同時期でしたが,被告発人梅野博之は,けっこう長い間,目立たぬ存在でした。平和町の県営住宅に住んでいるような話を聞いていて,供述調書にもその住所がありました。 笹田君と峰田君は,平成3年の2月頃,姫のNさん,珠洲市大谷町出身のYSさんが,竹沢俊寿会長に不義理をするかたちで市場急配センターを去ったとき,一緒に行動したとも聞きました。宇出津のK村さんもそうだと思います。 ひまわりチェーン - Google 検索 https://t.co/VjHrS21sZU 意外に思ったのですが,ひまわりチェーンというのは今も金沢市に存在するようです。ただ店舗数は少なそうです。平成3年当時は,金沢市内のあちこちで店舗を見かけていました。いずれもスーパーというよりは,食料品店に近い感じでした。 加盟店情報 | 全日本食品株式会社(全日食チェーン) https://t.co/WpxGbZWFsE ひまわりチェーンは,「全日本食品株式会社(全日食チェーン)」の加盟店のような情報を見かけました。全日食チェーンというのは,平成4年より前にもどこかで見かけていたような気がしますが,ひまわりチェーンとは関係がないものと思っていました。 飛騨運輸 金沢支店 - Google マップ https://t.co/muLEZuqYjV 住所は金沢市湊4丁目となっていますが,この飛騨運輸金沢支店の場所の辺りに,ひまわりチェーンの配送センターのような倉庫があったと思います。けっこう新しい建物でした。近くには糧食,カナカンと大きな,似たような商品を扱う倉庫があって,北都運輸の市内配達をしているときの配達先でした。 たぶん,ひまわりチェーンだったと思うのですが,会社の内容が変わっているとも考えられます。平成3年の春,被告発人大網健二の引っ越しの手伝いで,2トントラックを返しに行ったのも,その金沢港に近いひまわりチェーンの倉庫でした。 詳しい話は聞かなかったですが,宇出津のK村さんらは,市場急配センターを見限るかたちで,ひまわりチェーンの仕事を始めたようです。 市場急配センターでの市内配達中,笹田君か峰田君,たぶんその両方と,他の能登の顔見知りの市場急配センターの仕事をしていた運転手とも同じ場所で顔を合わせたことがありました。ひまわりチェーンの店舗だったと思います。ややこしい場所でしたが,だいたいの場所は記憶にあります。 長土塀 - Google マップ https://t.co/svRWwcU64R ちょっと意外には感じたのですが,住所は金沢市長土塀になりそうです。被告発人大網健二兄弟とも縁のあった豊蔵組の会社がありますが,その並びの道路からやや斜めで古い商店街に入る道路がありました。その奥の方にひまわりチェーンがあったと思いますが,道路が折れ曲がっていたとも思います。 自分の受け持ちだった小立野・片町コースの受け持ちのようでしたが,余り配達に行く店ではありませんでした。ずいぶん久しぶりに姿を見たとも思ったのですが,そこで笹田君や峰田君と出会ったのです。忙しそうに真剣に仕事をしていたので声を掛けることはなかったかもしれません。 笹田君と峰田くんとは,その後にも一度会っております。同じ焼肉店で食事をしたのですが,その場には被告発人浜口卓也,被告発人多田敏明,西口君がいましたし,被告発人多田敏明が手引きをしたような成り行きで,被告発人浜口卓也のアパートに行った後のことです。平成3年の年末です。 ==== 宇出津のK村さんと姫のNさんという被告発人大網健二と市場急配センターの接点 ==== よく考えてみると,金沢市場輸送で被告発人松平日出男を見るより,宇出津のK村さんと姫のNさんを金沢市場輸送でみたのが少し早かったかもしれません。被告発人松平日出男に関しては8月の終わりか9月の初めと記憶にあります。金沢市場輸送の事務所が移転した昭和63年のことです。 宇出津のK村さんと姫のNさんは,8月の20日過ぎに姿を見ていたようにも思います。見かけただけではなく,その場で話もしているはずかと思います。もともとK村さんのことは知りませんでした。今も被告発人大網健二から聞いていた話以外に,K村さんの話を聞くことはありません。 前後がはっきりしないのですが,宇出津のK村さんと姫のNさんについて,被告発人大網健二から魚の移動販売の仕事をしていると聞かされました。姫のNさんとは,昭和56年の12月から昭和58年とよく顔を合わせ,一緒に行動することがありました。昭和60年にも会っています。 その後,姫のNさんとは会うこともなく,話を聞くことも余りなかったと思います。少し聞いたのは野々市の運送会社のことでした。昭和59年の10月に私が金沢市場輸送をやめた後,すぐに金沢市場輸送に入社して,けっこう長く4t車で長距離の仕事をしていたとも聞いていました。 これもはっきりした時期は憶えていないですが,最初に金沢市場輸送で宇出津のK村さんと姫のNさんの姿を見かけてから,1,2ヶ月後,だったと思いますが,魚の移動販売に使っていたというトラックを,金沢市場輸送の給油機の前の駐車場に停めて,話をしたこともありました。 二人はかなりポンコツの青い色の2トントラックで市内配達の仕事をしていたと記憶にあります。そのままスクラップ工場に置いてあるような中古車でした。その持ち込みのトラックが古かったことも印象的でしたが,金沢市場輸送での2t車の持ち込みはK村さんとNさんの二人が初めてだったと思います。 K村さんについて,被告発人大網健二は昔からよく知っている話しぶりでした。宇出津のどの辺りに家があるとか,話を聞いたようにも思うのですが,ほとんど記憶に残っていません。ただ,消去法を交えて,宇出津の「いわいまち」とは聞いたような気がします。 「いわいまち」というのは口伝なので,発音にも個人差があり,最近は聞かないのですが,宇出津の町内の下岩屋と上岩屋を合わせて,「いわいまち」と中学生の頃に聞いていました。近年,祭礼委員の関係で知ったことですが,川原町も下岩屋と上岩屋と同じ区分になるようです。 新村三町内というのは,その前から聞いていたのですが,近年,これも祭礼委員の関係で,新町三町内というのも聞きました。もともと宇出津の新町といえば,上町と中町ということは知っていたのですが,大橋組を合わせて新町三町内とのことです。被告発人大網健二が住んでいたのは,この大橋組でした。 大橋組は川原町とも隣接し,川原町は新村と隣接しています。この宇出津の町内は地図の住所にはないものになります。小さい町内は十数戸,大きい町内は100戸を超えます。この区割りや数は,祭礼委員の仕事をすることでよくわかったのですが,地元でも他の町内のことは知らないことが多いと思います。 今,手元にある「のと町テレホンガイド」で調べたのですが,K村という漢字の名前は宇出津にありませんでした。たぶん平成16年4月発行のものです。表紙にはないのですが,中にそれらしい記載がありました。2,3日前に必要があって引っ張り出したのですが,住宅地図入りの電話帳です。 たぶん平成9年ですが,その頃にはK村という漢字の名前が宇出津にあり,私の母親の当時の知り合いにもそれらしい名前がありました。漢字の異なるK村は今でもけっこう宇出津にあるのですが,私は早い段階で,母親から漢字のことを含めて知らされていたと思うのです。K村さんのこととは無関係に。 疑って掛かるわけではないですが,当初,K村さんのことは余り意識せずにいました。ちょっと事情が違うように感じたのは,平成11年の2月頃のことで,金沢市役所で被告発人大網健二が,私とK村さんを引き合わせたことでした。ただK村さんとはその場で,言葉を交わすこともありませんでした。 商工会の融資のような話だと被告発人大網健二は私に説明をしていましたが,余り実態のありそうな話には思えませんでした。それでもK村さんは,思い悩んだ様子で,被告発人大網健二を頼りにしていると映りました。しかし,今考えても電話で済みそうな話です。 印象的だったのは,その時,K村さんが乗ってきたという車の話で,車体が大きすぎて金沢市役所の駐車場には駐車が出来ず,石川県庁の駐車場に停めてきたというような話をしていました。ベンツとは聞かなかったですが,ヨーロッパの外車の大型車のようでした。 この宇出津のK村さんと姫のNさんは,被告発人松平日出男と前後して金沢市場輸送で市内配達の仕事をトラックの持ち込みで始めたことになります。そもそも被告発人松平日出男というのは,市内配達のトラック運転手の仕事などは知識も経験も皆無の様子で,右も左もわからなかったはずなのです。 被告発人大網健二の話では,K村さんは以前に,車のブローカーをやっていたという経歴がありました。 これが被告発人松平日出男との共通する接点になりそうとは考えたのですが,被告発人松平日出男がK村さんと話をする様子は,余り見た覚えがなく,そもそも被告発人松平日出男の姿は麻雀以外に見かけずにいました。 金沢市場輸送の事務所に被告発人松平日出男の机というのはなかったと思います。昭和63年の9月から平成2年の4月頃までの間のことです。2年以上の間ですが,思い返しても,被告発人松平日出男が机を前に椅子に座って何かをしているというのは見た憶えがありません。 被告発人松平日出男がどんな車に乗っているのかもわからなかったのですが,平成3年には竹沢俊寿会長が乗っていたベンツに乗るようになっていました。竹沢俊寿会長がシルバーの2枚ドアのジャガーに乗るようになったあとのことと思いますが,けっこう前にベンツから乗り換えていたはずです。 平成3年の春頃には,ほとんど車の運転をしなくなっていたと思う竹沢俊寿会長です。夫人のエスティマで送り迎えをされている様子でした。会社に顔を出すこと自体,少なくなっていたかもしれません。あのエスティマも一番初期の頃のモデルだったと思います。 トヨタ・エスティマ - Wikipedia https://t.co/CekszsCCo5 それから約半年後の1990年5月12日に市販化され、その卵をイメージさせる未来的なスタイルで「高性能ニューコンセプトサルーン」として注目を集めた。 わかりやすい時期のことが書いてありました。平成2年5月12日に市販化されたとあります。そういえば,昨日辺りに被告発人安田繁克と雪のスリップのことを書きましたが,ちょうど同じ頃に,金沢市場輸送の事務所前で,同じく積雪の状態でベンツを移動させたことがありました。 ギアを高めに発進させたのですが,さすがにすごいパワーだと思いました。それから少しして,雪が降らなくなった時期に,ジャガーにかわったとも思います。ジャガーもけっこう長い間,金沢市場輸送で見かけていた印象があります。おそらく見かけなくなったのは,竹沢俊寿会長の体調悪化なのでしょう。 もっとも竹沢俊寿会長の健康状態に関しては,ずいぶん前から詐病の疑いもありました。糖尿病で石川県立中央病院に通院していたことは事実のようですが,主治医でもないと実際の健康状態のことはわからなかったと思われますし,疑いの目で見る人もけっこう周りにいた感じでした。 まだ金沢市場輸送で長崎県の長与農協にミカンを積みに行っていた時期で,昭和63年の正月前後になるかと思いますが,だいたいその時期のことで,金沢市場輸送の運転手の武田さんが,竹沢俊寿社長の還暦祝いに赤いチャンチャンコを贈るような話をしていました。 昭和63年に60歳だとすると,平成3年の秋には63,4歳と推定されますが,杖をつきやっと歩いている状態となっていました。12月には夫人が介添をするようになっていました。今より糖尿病に関しては,目が見えなくなるとか色々と深刻な話を聞く時代ではありました。 最後に竹沢俊寿会長と話をしたのは,電話でしたが,平成9年の2月頃のことになります。弁護士を紹介してやるといい,しきりに私に会いたがっていました。電話の声を聞いた感じでは,平成4年当時と変わりがなかったと思います。 最後に竹沢俊寿会長と会ったのも,はっきりとは思い出せないですが,夕方,外が暗くなった時間に,夫人と二人で食事に誘われたことがあり,そのあとにも1回ぐらいは姿を見たような気がします。 食事に誘われる少し前には,被告発人東渡好信と浜上さんが,子供のいない竹沢俊寿会長夫妻が,私を養子に迎えて会社を継がせたいと考えている,というような話を私にしたことがありました。真偽はともかく,私より被害者安藤文さんに影響を与えそうな話だとは思いました。 竹沢俊寿会長夫妻に食事に誘われた数日後とも思うのですが,同じような時間に,被告発人松平日出男の誘いで食事に行くことになりました。被告発人東渡好信と浜上さんもいたと思います。他のメンバーは今思い出せないですが,全部で6,8人だったように思います。 最初に中橋の陸橋の下の焼き鳥屋のような店に行ったのですが,満席で断られたように思います。車の中に乗ったままでいました。そのあと金沢駅の西口に行き,そこで食事をしたと思います。開発されたばかりの金沢駅西口でした。これも調べれば情報が見つかりそうです。 金沢百番街 - Wikipedia https://t.co/mCRe0qKQY6 合計で100店舗を超えるテナントが集積している。JR西日本の子会社である金沢ターミナル開発が1991年(平成3年)3月20日に開業させた。 「JR金沢駅西口ビル(あんと 西)」とあるので間違いはなさそうですが,金沢百番街という聞いたことのある名称が,西口とは結びつきがありませんでした。平成3年3月20日開業とあります。 平成16年か17年に,電話で被告発人梅野博之が意味ありげに,宇出津のNという名前の話を始めました。姫のNさんと同じ苗字ですが,電話帳で調べたところ,同じ小棚木の町内に家があったので,直接,その家を訪ねて,市場急配センターとの関係を確認したということもありました。 被告発人浜口卓也の場合も,姫に隣接した集落の真脇でしたが,金沢では宇出津の出身と話していたようです。 インターネットも普及していなかった平成4年以前は,能登の宇出津だと言っても通じないことがありましたが,当時の鳳至郡能都町で役場もあったのが宇出津なので,宇出津と説明をしていても不思議はない話です。 ただそのときの被告発人梅野博之の口ぶりが,かなりあざとく感じられるもので,気になって調べておくことにしたのです。 まだ金沢市場輸送にいた頃,そのときも給油機の前辺りでしたが,見慣れない人に声を掛けられ,しばらく話をしたのですが,持ち込みの市内配達をしているといい,松任市で宇出津のK村さんや姫のNさんと同じアパートの部屋に住んでいて,紹介で仕事をするようになったと話していたと思います。 全体的に記憶の方が薄れているので断定は出来ないのですが,少なくとも姫のNさんと同じアパートの部屋に住んでいるという話で,宇出津のK村さんも一緒のようにも聞こえました。どちらかの名前を出し,「ら」という複数形にしていたのかもしれません。 ずいぶん変わった名前だったので,今でもよく覚えているのですが,今年の春辺りに名前を検索で調べたところ,七尾市の近くによくある名前のようでした。簡単にはみつからなかったのですが,歴史遺産にもなっているような旧家の名前のようです。 市場急配センターに移ってからも,裏駐車場で一度は顔を合わせているのですが,その後は姿を見なかったように思います。平成4年の1月4日だったと思いますが,市場急配センターの2階事務所で新年の顔合わせがあり,意外ほど大勢の運転手が一同に集まっていましたが,姿は見なかった気がします。 持ち込み運転手の場合は特に,用事以外に市場急配センターの会社に姿を見せない運転手がいる様子でした。2t車なので,乗用車と同じ通勤にも使っているので,なおさら顔を合わす機会が少なかったのだと思います。金沢中央卸売市場の仕事もけっこう時間にばらつきのあるものでした。 姫のNさんが松任市に住んでいることは,最初に被告発人大網健二から魚の移動販売の仕事の話を聞いた頃から聞いていたと思います。松任市としていますが,会話では,「まっとう」とだけ呼んでいました。現在は白山市の一部になって白山市全体の範囲が大きく広がっています。 平成15年の1月,関係者KYNの会社事務所で彼と話をしたとき,話の最後に彼が姫のNさんとの付き合いを語りだしたのはずいぶん意外でしたが,そこには大きなものが秘められていると感じ,姫のNさんや宇出津のK村さんに対する注目度を大きく高めたことは確かです。 松波のAKさんとも会うことがなく,どこに住んでいるのかも聞かなかったことも大きな意味があると感じていました。いしかわ動物園のアザラシ館の水槽の基礎工事で,松波のAKさんらしき人の姿を見ていたことも記憶には記述があると思います。人形のように黙って座り,目を動かさなかったのも異様でした。 色の濃い眼鏡かサングラスを掛けていたので表情は読み取れず,横に3人ほど並んで座り,おばさんも一人いたと思います。少なくとも3人はいましたが,同じような行動なのが演目を演じているようにも感じられました。とても松波のAKさんに似ているとは思いましたが,確信にまでは至りませんでした。 その人たちは型枠大工のようでしたが,その少し前には松波のAKさんが,被告発人大網健二の兄関係者OSNの鳶職の会社をやめ,型枠大工の仕事をしていると聞かされていました。被告発人大網健二に聞いたとも思いますが,そういう話はしたのに,どこに住んでいるのか話さなかったのが気になりました。 松波のAKさんの妻とは,平成3年12月21日の夜,片町のオーロラ会館の5階ぐらいの飲み屋で会っています。被告発人浜口卓也に連れられて入った店でした。これも記録には繰り返し詳細に記述してある事実のはずです。 金沢駅の近くに全日空のビルがありますが,松波のAKさんが被告発人大網健二の兄関係者OSNの鳶職の会社で仕事をしている頃,高い階層から足場組立の材料を大量に落下させる事故があったと被告発人大網健二に話を聞き,別かもしれないですが,太ももに鉄パイプが突き刺さったような話も聞きました。 金沢市場輸送で姫のNさんと顔を合わすようになってからもほとんど会話をした記憶はありません。不思議なほど寡黙でした。他の誰かと会話をしているのも見たことがないのですが,夕方近くに金沢市場輸送の運転手の休憩室の机で,真剣に伝票の整理をする姿は何度か見かけていました。 少し言葉を交わしたのは,一度,金沢市南新保の被告発人浜口卓也のアパートで会ったときです。被告発人安田敏も一緒にいました。たぶん被告発人浜口卓也に誘われてアパートに行き,しばらくして姫のNさんが来たように思います。言葉は少なかったですが,ずいぶんと穏やかで思慮深く感じられました。 これは市場急配センターで市内配達の仕事をしている頃のことで,夕方だったと思いますが,早い時間で16時台だったように思います。それより前に,被告発人浜口卓也のアパートに行ったことは,今のところ思い出せません。そこで姫のNさんに出会ったのは,偶然とばかり考えてきました。 ここでは特定を避けるため曖昧にしておきますが,共通の友人・知人にKという女性がいて,被告発人安田敏とも関わりのあるTさんと結婚していたのですが,平成元年の1月,そのTさんが松波港で新車の赤い軽四で海に飛び込み自殺をしました。 平成3年の9月,20日頃だったと思いますが,共通の友人・知人にKという女性が再婚したとか再婚するという話を聞き,再婚相手も金沢市大場町東の被告発人大網健二の家で会いました。そのときも松任市と聞いていたように思います。 その後,2億とも聞いた保険金の話がありました。億の単位でしたが1億ではなく端数はなかったように思いますが,だいぶん前から正確な金額が思い出せずにいます。3億ではなかったと思うので,2億円の可能性が最も高い気がします。端数のことも完全には否定できないです。 松任市で重機を扱う会社というような話も聞いていました。保険金の話はある場所で,ある人から聞いていますが,それ以外には一切耳にしたことのない話です。これも知っていることのすべては記録に記述があるはずです。今でも名前は憶えています。 松波港で新車の赤い軽四で海に飛び込み自殺をしたTさんは,高校卒業後に金沢市場輸送で長距離の運転手をしていたとも昭和59年より前に聞いていましたが,昭和61年の12月頃には免許取り消し中でしたが,再度,金沢市場輸送に入社し,ミールの倉庫移動など一緒に仕事をしていました。 ==== 笹田君と被告発人大網健二の中古車販売を巡るトラブル ==== 記憶が薄れていますが,この笹田君と被告発人大網健二との車のトラブルは,中橋陸橋の下の商店街のような場所のことが強く印象に残っていて,そこで昼に被告発人大網健二と会っていたように思うのです。 このあと《参考資料》としてGoogleで調べたいと考えているのですが,今記憶のまま書いておきます。六枚の交差点から金石方面に向かうとすぐに中橋の陸橋がありましたが,被告発人松平日出男に食事に誘われ最初に向かったのは,陸橋手前の右側でした。 被告発人大網健二と会ったように思うのが,六枚の交差点から金石方面に向かう方向で,陸橋の右手の奥になります。そこに本当に商店街があったのかも定かではないのですが,滅多に行くような場所ではなく,行ったのもほんの数回だったと思います。 今考えると,時期的に北都運輸の市内配達の仕事をしていた時かもしれません。北都運輸の市内配達ではずっと金沢市場輸送の古い4トン保冷車でした。車番は6526のような感じだったと思います。昭和59年当時にも乗務していたトラックでした。このナンバーは「石」になります。 北都運輸の市内配達は,業務用のマヨネーズ,ドレッシング,ジャムなどが主な荷物でしたが,ほぼ金沢市内全域が受け持ちのコースになっていたと思います。それでもだいたいの範囲は決まっていて,配達の最後が金沢港の周辺であったようにも記憶にあります。 戦災を受けていない金沢市内は,狭い路地が多いという特徴もあるのですが,4トン保冷車での市内配達でもそれほど難儀したという記憶はありません。卯辰山の上り口,天神橋を渡った先のカーブで,無理なUターンをしていたことは,よく憶えています。 * 911:2020-09-12_10:38:19 * 《参考資料》金沢市内,中橋陸橋付近と,大和町 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/12/103818 平成元年当時とは町並みも変わっていると思いますが,まじまじと中橋陸橋周辺の地図を見たのは今回が初めてかもしれません。中橋町とありますが,これも初めて目にするような金沢市内の住所です。 今回,Googleマップを見て,六枚の交差点から中橋陸橋を渡った先の,初めの大きな交差点の名前が中橋の交差点ということをずいぶんと久々に思い出しました。 中橋の交差点で金石街道と交差するのは,Googleマップで県道60号線と見えますが,大豆田大橋方面が「まめだ大通り」,諸江方面が「もろえ通り」ともなっています。どちらも余り聞いたことのない道路の名前ですが,よく通行する道路でした。 中橋陸橋は,金沢駅から最も近い陸橋になると思いますが,昭和55年当時からあったと思います。金沢駅から歩いて,被告発人大網健二が住んでいた大和町のアパートに行った記憶があり,六枚の交差点から中橋陸橋が見えたような記憶もあって,その風景は平成に入ってからも変わらぬものでした。 金沢駅に近いだけあって賑わいは感じられましたが,店などはほとんどなかったと思います。入ったことはなかったですが,中橋の陸橋の下の道路には飲食店がありそうな雰囲気でした。六枚の交差点から増泉の方に向かうと,右手に婦人会館のビル,左手に職業安定所がありました。 職業安定所の住所は芳斉だったと思います。Googleマップで確認すると前の道路が昭和大通りとなっていました。これは聞いたことのあるような道路の名前です。よく婦人会館と聞いていた建物は石川県女性センターとなっています。 少し手前に金沢中央郵便局とありますが,平成4年には出来ていた新しい建物で,市場急配センターの仕事で行ったことがありました。イヨカンを積み込んだような気もするのですが,それを金沢中央卸売市場で降ろした時かもしれません。 石川丸果の課長という人物がいて,被害者安藤文さんとよく似た年頃の娘と思われる人を連れていました。この課長については他にも話を聞いたのですが,被告発人松平日出男と昵懇でよろしくやっているという話でした。 この告発状の本文には書いていないかもしれないですが,平成3,4年当時,市場急配センターの事務所の横の空き地に,いつも郵便局の大型トラックが駐車していました。いつも2台いたような気がします。金沢中央卸売市場との間になる空き地です。 その空き地はずいぶん前から市場急配センターの給油所になっていて,Googleマップで確認が出来ると思います。平成3,4年当時はただの空き地ではなく,草が生えた放棄地のような空き地で,舗装などもされていなかったと思います。不思議と郵便局のトラックの出入りは見たことがありませんでした。 金沢中央卸売市場やその周辺で,郵便局の大型車が仕事をするのも見たことがなかった気がします。新車のような新しいトラックで,いつもピカピカに洗車されているような状態だったのも印象に残っています。ときどき不思議に思っていたのですが,余り話題になることはなかったと思います。 一度誰かに,郵便局大型トラックの疑問をぶつけ,何か話を聞いたような気もするのですが,忘れてしまったのか思い出せません。あの土地の所有というのも不可解でした。角地になりますが,そこを残して,賃貸か売買かはわかりませんが,市場急配センターが事務所と駐車場を作ったことになります。 ▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶ * RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2020-09-12 11:25/2020/09/12 11:24 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1304606916518191109 https://twitter.com/s_hirono/status/1304606795097276416
2020-09-12-112109_平成4年当時の市場急配センターの事務所と給油所になった空き地の場所.jpg https://t.co/Ukr7ZkWlO8スクリーンショットを作成しましたが,あらためてGoogleマップで給油所となった空き地を見ると,平成4年当時の記憶より倍ほどにも感じるほどの広さがあります。金沢中央卸売市場横の道路の角地ですが,すぐ近くに金沢中央卸売市場の立体駐車場の出入り口があります。 ストリートビューでみると金沢中央卸売市場の建物は4階建てですが,売り場のある1階が,そのまま2階分ぐらいの高さとなっています。2階には一部事務所があって,用事で行ったこともある記憶ですが,他の階などはデパートによくある立体の駐車場となっていました。 大きな駐車場で,何度か行ったことがあるのですが,広く大きな駐車場だったわりには,車の出入りを見かけることが少なかった気がします。市場急配センターの裏駐車場の横がその出入り口になりますが,特に夕方から夜は,車の出入りを見ることがなかった気がします。 中橋陸橋の話に戻します。商店街があるようにも,あったようにも見えないのですが,当然ながら陸橋を渡らずに,向こう側には行けず,踏切りがあったという記憶もありません。割と広い道路で,それが一直線に長くなっていたとも記憶にあります。 中橋の陸橋周辺ではなかったと思えてきたのですが,他にそれらしい場所というのも思い当たるものがありません。なぜ中橋陸橋の周辺として記憶していたのかもわからないのですが,かなり衝撃的に焼き付いた記憶となっています。 なぜその場所で被告発人大網健二と出合ったのかも不思議でした。それだけではなく,いきなりの興奮状態で私にまくしたてたのは,笹谷君に対する不満でした。同じ金沢市場輸送の会社だから知っていて当然という思いが彼にあったことは否定できないですが,私の立場ではずいぶんと意外でした。 何度か言葉を交わしたというのもたぶん笹田君ではなく峰田君だったと思います。いつも二人でぴたりと一緒にいたので,どちらとも話をしている感覚ではありました。女子ではよく見かけた仲良さですが,男では他に今まで見たことがない気がします。思い当たる人物がありません。 背格好も似ていたと思いますが,峰田君の方が細身であったような気がします。笹田君は中肉中背だったと思いますが,どちらかといえば小柄であったような印象があります。 笹田君も峰田君も他の社員とは,余り話をするのを見たという記憶がありません。今考えると,何か時間をつぶす必要があって夕方に割と遅めの時間まで金沢市場輸送の運転手休憩室に残っていたのかもしれません。他の運転手には見られない行動でもあったので,余計に印象に残っています。 なぜ被告発人大網健二があそこまで感情をむき出しにして怒っていたのか,今考えられる結論は演技です。当時もおかしいとは思い頭をひねっていたのですが,思い当たることがないまま漠然としていました。 これまで重要視する事実関係の1つとしながら深くは考えてこなかったのですが,被告発人大網健二と出合った場所が思い出せません。当然ながら携帯電話など普及していなかった時代で,ポケットベルというものはありましたが,持ったことも使ったこともありませんでした。 昭和58年の春にポケットベルをもたされたことはあったかもしれないですが,私個人ではなく二人以上はいて従という立場だったと思います。 松元組という暴力団の組員で,北友会の幹部と聞いていました。当時の石川県の暴力団の多くは,山口組一会の傘下に北友会があって,北友会の事務所は中央通りにありました。事務所に入ったこともあったのですが,片町の繁華街のすぐ側で,まるで警察の交番のような雰囲気があったと記憶にあります。 秋田県の能代の浜に死体で上がり,入れ墨で身元が判明したような話を聞いたのも,最後に会ってから1〜3年後のことだったと思います。白菊町のFNさんのアパートでよく会ったのですが,姫のNさんに対して本気で怒っていたことが印象的でした。理由は聞いていません。 被告発人浜口卓也も同じ松元組の元組員だったのですが,不思議とそのMUという暴力団員と接点のある話は耳にしませんでした。私はそのMUという人物のつてで,金沢市松村町のダクトの会社で仕事をするようになったのですが,先にMUという人に紹介されたDDさんの紹介だったのかもしれません。 ダクトというのは空調設備のことですが,仕事をしたのは長くて2ヶ月ぐらいだったと思います。そしてその会社をやめたすぐ後に,金沢市場輸送に入社しています。昭和59年1月のことです。やはりMUさんの直接の紹介ではなかったと思います。MUさんに最後に会ったのは遅くても夏のことだと思います。 DDさんですが,昭和58年の8月の終わり,宇出津のDDさんの家で,被告発人安田敏に会ったことがきっかけで,被告発人安田敏の金沢市観音堂のアパートに居候することになりました。居候は11月の10日頃まで続き,その後に出雲町の運送会社とダクトの会社で仕事をしたように思います。 出雲町の運送会社では,社長に,他の社員に無事,正月を迎えさせたいので辞めてくれと言われ首になりました。だいぶん普通ではなかったのですが,これはその後の金沢市場輸送でも問題児扱いされることになります。 昭和59年の1月から10月まで金沢市場輸送にいて問題を起こし問題児扱いされたことは確かなのですが,そのギャップが大きかったことで,昭和61年8月の入社以降は,自分でいうのもなんですが,大きな信頼と実績を残すようになりました。とりわけ評価してくれたのが竹沢俊寿会長夫妻になります。 出雲町の運送会社にいたことを考えると,ダクトの会社にいたのは一月より短い間だったのかもしれません。和倉温泉の美湾荘に仕事に行ったことと,民宿での泊りがけで富山県黒部市のYKK吉田工業の大きな工場の現場に行ったことが印象に残っており,富山に通ったのは雪の降る時期でした。 夜になっていましたが,金沢に帰る北陸自動車道で,ちょうど有磯海サービスエリアの出口からの側道が交わる辺りのカーブで,北海道の地図を象った模様と,札幌と書いてあったと思いますが,高速で雪を巻き上げて走る姿に感銘を受け,長距離トラックの運転手になりたいと思ったのです。 平成元年ですが,北都運輸の市内配達の仕事を始めたのは5月か6月だったと思います。金沢市場輸送の給料の締切日と給料日が思い出せないのですが,25日締めの翌月5日払いという市場急配センターの給料日とは,違っていたような気がします。考えられるのは月末締めですが,確信は持てません。 いずれにせよ,北都運輸の仕事は11月一杯となっていたと思います。私にとって続けて2回目のイワシのシーズンでしたが,前年は12月21日辺りに出発した運行を大型保冷車での長距離の運行の最後としました。YTを同乗させ,宮城県石巻市のハローマックに向かった運行です。 到着した石巻での冷房のこともあるので,ハローマックに間違いはないと思うのですが,この行きの荷物は富山県高岡市の古くて大きな倉庫のような場所で夕方暗くなった時間に積み込んだような記憶があります。 ハローマックの仕事は他に,高知県高知市と宮城県岩沼市あるいは名取市が記憶にあるのですが,いずれも金沢市内の浅野本町の辺りで荷物を積み込んだ記憶があります。金沢駅から鳴和に向かうと右手でした。道路の名前は東大通りとなっていましが,右手に1本か2本入った通り沿いでした。 当時,テレビCMがよく流れていた子供向けの人形の会社だったと思います。端午の節句の人形などです。荷物は箱詰めされ中身はわからなかったと思いますが,ハローマックは全国展開する玩具店で,金沢にも八日市辺りに店舗がありました。 1年目は,そもそもイワシを運搬する水槽が出来るのに,シーズン開始を過ぎていたかもしれません。ほぼ同時に5台の大型平ボディ車が納車されました。いすゞは2台で,三菱ふそうが3台だったと思います。 5台ともそうだったのかは記憶にないですが,トラックの運転席と助手席のドアの横には,社名を入れることが決まりになっていると聞いたのですが,そこには金沢市場輸送ではなく「両合物産」となっていました。 蛸島の浜田漁業の関連会社の社名です。おそらくは税金対策ですが,関連はよくわかっていません。浜田漁業は,濱田が正確なのかもしれません。トラックは浜田になっていたと思うのですが,濱田という社名もどこかで見ていたように思います。 なにか行政処分のようなものを受け,新車の納入が出来ず,それで両合物産の名前を借りたと聞きました。原因は北陸自動車道の新潟県,糸魚川インターでの重量オーバーの摘発でした。運転手が会社の指示で嫌々積んだような話をしたため,大事になったと話を聞きました。竹林から聞いたように思います。 イワシの水槽は竹沢俊寿会長が調べ上げて業者に発注をしたという話で,和歌山県田辺市の工場でした。一回だけだったと思いますが,水槽を載せたトラックを,これから水槽を載せるトラックに乗って引き取りに行ったのです。たぶん1月の年明けだったように思います。 しかし,それをイワシの運搬のスタートと考えると,12月21日頃に大型保冷車での最後の運行をした意味がなくなります。大型の平ボディ車の新車もまだ秋のような季節,11月中に入っていたような記憶もあります。工事中で通り抜けできない道路に,その平ボディ車を駐車していました。 石7599号での最後の運行は,とりわけ印象に残るものだったので大体の日付もよく憶えています。たぶん出発が12月21日ですが,20日という可能性もあるかもしれません。 2年目のイワシの運搬の仕事の始まりは,日付が特定しづらいのですが,ずっと前から12月の15日頃という記憶になっています。まだ正月やクリスマスが近づいたというあわただしさもなかったという感覚が残っています。 石川県(漁協) 金沢港支所 - Google マップ https://t.co/YRT10LUhsL 〒920-0331 石川県大野町4丁目イ - Google マップ https://t.co/WR3zEIUr5G Googleマップで見ると,「4丁目イ」となっていますが,たぶん1年目のイワシのシーズンは,ずっとこの場所でイワシの船の水揚げから運搬をしていたと思います。 割と最近になってGoogleマップで気がついたのですが,橋があってずっと川だと思っていたものが海の通り道で,大野の地域自体が出島のような地形になっているのだと知りました。起訴状などでは大野埠頭となっていたかもしれません。 Googleマップでは「石川県(漁協) 金沢港支所」ですが,運転手の間では県魚連と呼んでいたように思います。魚市場のようなものですが,Googleマップには市場とは書かれていないようです。近くにもう一つ魚市場があって,そちらは南浦と呼ばれていたように思います。地名とは関係なさそうです。 石川県漁業協同組合かなざわ総合市場 - Google マップ https://t.co/xrWpIA3NET Googleマップでは,これも聞いたことのない名前になっていました。県魚連の市場の方が荷物も多かったですが,だいぶん前から建物の一部が海産物の直売所になっている話はテレビで聞いていました。Googleマップでは次の名称となっています。 金沢港いきいき魚市 (株)新田商店 - Google マップ https://t.co/vhlJViXzMb そういえば,新田商店は昭和59年当時,河北郡七塚町に会社があると聞いていました。被告発人松平日出男の出身地と聞いたのも同じ七塚町ですし,今考えると年齢もだいたい同じぐらいになりそうです。昭和59年当時は4トン保冷車が4台で,白ナンバーでした。 昭和59年当時,金沢市場輸送は丸中水産の仕事で,金沢港からスルメイカを積んでいたのですが,それとは別に2,3度,茨城県の今の鹿嶋市行きのあさり貝を積み込んだことがあり,それが新田商店の仕事でした。 金沢市場輸送は昭和59年当時,丸中水産で新潟の定期便をしていたのですが,昭和61年の8月に私が二度目の入社をした頃にはなくなっていて,代わりに守田水産輸送がするようになっていました。もともと丸中水産は金沢市場輸送と手を切りたかったという話です。 昭和59年当時の丸中水産は若社長で,先代から引き継いだばかりとも聞いたように思います。まだ20代という感じだったので,今だと9歳前後になるのかもしれません。これまで余り考えたことがなかったですが,当時の金沢市場輸送や竹沢俊寿社長の実像をよく知る人物となるのかもしれません。 もともと腐れ縁で,金沢市場輸送が丸中水産の仕事をしているという話もありました。金沢市場輸送は朝から人足を出して魚の積み込みを手伝わせていたのに,なぜそこまで悪く見られるのか不思議でもありました。大きなミスや悪さを運転手がしたという話もなかったように思います。 昭和59年当時の金沢市場輸送は,大型運転手は別かもしれないですが,朝8時か8時半の出社で,決まって金沢中央卸売市場の鮮魚の売り場に行き,丸中水産の新潟便の積み込みを手伝わされたのです。気楽な面も大きかったですが,この辺りはしっかりと徹底したものが規律のようになっていました。 夜中に長距離を走ることを前提とした朝8時か8時半の出社でした。それで給料が固定で20万円。まだ不景気という時代でもありましたが,市場急配センターの市内配達でも固定給で20万円と聞く時代に,数年後には変わったことになります。 Googleマップに「石川県(漁協) 金沢港支所」とある場所ですが,今のGoogleマップには見当たらないものの以前は「無量寺埠頭」となっていたように思います。人工的に作られたと思われる埠頭ですが,この奥に向かって中央から右端辺りが,もう一つの別のイワシの水揚げ場所となりました。 1回目のイワシのシーズンに1回もなかったとは断言できないですが,2回目のシーズンから始まったとすると,その初日だったと思います。水揚げ場所が増えたのは,北陸ハイミールの仕事が増えたからで,イワシを捕獲し水揚げをする船団も浜田漁業お抱えの蛸島丸に,輪島丸が加わりました。 余りはっきりとは憶えていないものの浜田漁業金沢工場のイワシの処理は一日で600トンと聞いていたように思います。北陸ハイミールはそれが1600トンで日本海側最大という話でした。北陸ハイミールは北海道の釧路の会社らしく,愛国運輸もイワシの運搬に加わりました。 3週間か4週間ほど前,テレビで大阪府の岸和田市の辺りでしたが,イワシ漁の紹介をしていました。大きな網で漁をしていましたが,はっきりとは記憶していないものの,運搬船の大きさなど2,30トンという話であったように思います。浜田漁業の運搬船は大きなもので400トンでした。 浜田漁業の運搬船は4隻ぐらいだったと思います。輪島丸の方が少し多かったような気もしますが,小型でした。 12月の金沢は17時半になるとすっかり夜の暗さになっていたと思いますが,19時から21時の間の時間だったと思います。ちょうど決められた集合時間頃だったとも思うのですが,トラックの運転席にいたところ,下から声が掛かりました。大型車の運転席なのでけっこう高いです。 これもいきなりの興奮状態で,受け取り次第では喧嘩腰にも思える勢いがあったのですが,突然にわけのわからないような話を始めたのが笹田君でした。たぶんすぐには誰なのかわからなかったと思いますし,普段は無口で大人しいだけに,まるで別人のようでもありました。 すぐに被告発人大網健二の名前が出たので,だいたいの用件というのは理解ができましたが,一緒にいた若者がチンピラヤクザ丸出しで,短いパンチパーマでした。 本物のヤクザというか暴力団員を連れてきたものと思ったのですが,しばらくしてそれがS藤だとわかったときは驚きました。前は長髪だったので見た目もずいぶん違っていました。 二人が乗ってきた車は笹田君の車で,トヨタのレビンかトレノだったと思います。どちらも確かカローラの仲間で,テールランプの形状など外観の少しの違いがあるだけだったと思います。新車のようでしたが,新車と聞いたかもしれません。 ファミリーマート 金沢みなと店 - Google マップ https://t.co/lDMrw0j1QW \n 石川県金沢市大野町4丁目ヲ31−1 上記の「ファミリーマート 金沢みなと店」となっている場所には,かなり遅くまでやっている今のコンビニのような酒店がありました。どこに行ったのか思い出せないのですが,笹田君の車に乗って,その店の前辺りを走行していた記憶があるのですが,たぶんその店に買い物に行ったのだと思います。 いくらか前の時期の話に戻りますが,11月一杯で北都運輸の市内配達の仕事をやめたとして,そのあとイワシの運搬の仕事が始まるまで,どんな仕事をしていたのか思い出せないのです。12月の20日頃までは,イワシの水揚げが,量と回数ともに少なく,仕事は回転も早いダンプが優先となっていました。 被告発人大網健二から話を聞いたのが先だったのは間違いないと思いますが,笹田君が私に被告発人大網健二に対する苦情をぶちまけにくるまで,どれぐらいの日数があったのか,今は思い出せなくなっています。そもそも私に何かを言って解決するような話ではなかったはずです。 今は,笹田君が何を言葉にしていたのか思い出せないですが,「いったい,あの人(あるいは,あの男),どうなるがけ!」というような感じだったとは思います。怒りと驚きが入り混じったような様子でした。普段大人しい人ほど,怒ったときに爆発するとは聞いていましたが,尋常ではなかったです。 特段とりなしたり,なだめたつもりもないのですが,これも何を話したのか記憶にないものの,受け答えをすると笹田君はすぐに落ち着いたように思います。要するに注意をしてくれという話であったと思いますが,具体的に何をしてくれという話はなかったはずです。 ちょうど同じ頃,被告発人大網健二のアパートに遊びに行きました。たぶん初めて行ったときだと思います。そこで笹田君の話をした記憶はないのですが,終始穏やかで上機嫌だったような印象が残っています。ようやく神戸から戻ってきた金沢での生活が落ち着いたという,安堵感も感じられました。 S藤は,見た目とは異なり,最初から大人しい感じでした。笹田君が話す,被告発人大網健二とのトラブルも理解しているようには思えず,不思議そうにもしているとも感じられました。 その場で,市場急配センターを辞めたような話は聞いた憶えがないのですが,ずいぶん長く顔を見ていなかったので,辞めていたと考えられます。ただ,最初に続けて何度か会った後は,ずっと会うことがなかったと思うので,他の運転手とは違った生活スタイルの仕事をしているようにも思えました。 金沢市場輸送の仕事で昼に金沢中央卸売市場に入ることは滅多になかったということもありますが,このS藤や被告発人安田繁克が市内配達の仕事をする様子というのも見たことがなかったように思います。 金沢市場輸送の仕事で昼に金沢中央卸売市場に入るのは,筍の仕事ぐらいで,それも長くて2,3週間だったような記憶です。ちょくちょく行ったのは,魚箱の発泡スチロールを捨て場所から拾ってくる用事で,これは鮮魚の積み込みをするとき,隙間に入れて固定するために必須のものでした。 一番,市場急配センターの運転手と顔を合わせる機会が多かったのは,金沢市場輸送に一台だけあった給油機かもしれません。給油機には鍵があって,最初のうちは金沢市場輸送の事務所で,女子事務員に借りていたようにも思います。 金沢市場輸送と市場急配センターは給油機の鍵が別になっていたのですが,9月には被害者安藤文さんが預かるようになっていました。8月中にも一度,二階の窓から落としてもらったような記憶があるのですが,それは市場急配センターにある洗車機の鍵だったかもしれません。 この金沢市場輸送の給油機の鍵というのも,私と被害者安藤文さんと接近するきっかけの1つとなっていました。おそらくは仕組まれたものです。この給油機の鍵のことだけでも色々とあったのですが,今は全体がぼやけわずかに思い出せる程度となっています。 12月中にも金沢市場輸送で給油をしていた記憶があるのですが,市場急配センターから鍵を持っていった記憶はなく,金沢市場輸送の女子事務員の預かりとなっていたような気がします。年が明け平成4年となると,今度は金沢市場輸送に給油に行ったという記憶自体がなくなってきます。 なにか指示を受けたという記憶はないのですが,かなり面倒に思いながら津幡町の太陽鉱油まで行って給油をしたことは,何度か記憶にあります。往復だと30分以上は時間が無駄にかかったと思います。こういう無駄な走行というのは,かなり苦痛に感じていました。 被告発人大網健二と笹田君の間でトラブルになったという車は,アルトワークスでした。軽四でしたがツインカムターボのマニュアル車でした。これも時期がはっきり思い出せないのですが,4月か5月だったと思います。その笹田君が乗っていたというアルトワークスを私が買うことになったのです。 きっかけは,それまで乗っていたホンダのプレリュードの故障でした。春と記憶にあるのですが,いきなりギアがおかしくなり,どこかの自動車工場でみてもらうと,ミッションの載せ替えで,ずいぶんと修理代が掛かるようなことを言われました。このプレリュードもマニュアル車です。 ちょうど同じ頃に,被告発人大網健二は別の人とのトラブルめいた話を私にします。はっきりした記憶ではないのですが,私が査定0の下取りに出したプレリュードの転売が,その原因と聞いたような気もします。相手ははっきりしています。
第58回 1974年 昭和49年 石川水産(石川) [source:]歴代優勝校・優勝者|高等学校相撲金沢大会 https://hk-event.jp/sumou/winner/歴代優勝校・優勝者|高等学校相撲金沢大会 https://t.co/4Zz0Zb42BO \n 第58回 \n 1974年 \n 昭和49年石川水産(石川) 高等学校相撲金沢大会とありますが,卯辰山の相撲大会として知られています。昭和49年に石川水産が優勝していますが,この大会の関係者として,ずっと前から何度か名前は聞いたことのある人でした。全国優勝と考えるとずいぶん小柄にも思え,勘違いがあるのかと考えもしました。 被告発人大網健二からもはっきりした話は聞いていなかったと思うのですが,被告発人大網健二からその人の話を聞く前に,私はその人と出会って,直接,会話をしていました。会話の内容も話をした場所も思い出せないのですが,たぶん守田水産輸送の大型保冷車の運転席だったと思います。 重なる時期ではなく,たぶん前だったと思いますが,同じ守田水産輸送の大型保冷車の運転手として,宇出津の小棚木のNさんとも出会っています。被告発人東渡好信の知人として市場急配センターに来ていたことを,すでにこの告発状本文に記述済みと思います。 宇出津の小棚木のNさんの場合は,宮城県の石巻港の魚市場の前で,駐車した守田水産輸送のトラックで話をしたという記憶が,割合はっきりと残っています。同じような状況で話をしたのが,息子が笹田君,峰田君の友人という松ちゃんと呼ばれる運転手で,その人とは複数回似たことがあったと思います。 笹田君のときほど猛々しいことはなかったと思いますが,負けないぐらい強い調子で,その人に対する不満を被告発人大網健二は私に話していました。たぶんですが,守田水産輸送には長くいなかったと思われ,その後,姿を見ることもありませんでした。 何月ごろから始まったのか思い出せないですが,ちょうど丸一年ぐらい,守田水産輸送の青森定期便の仕事が続きました。守田水産輸送の自社便とは一日交代でしたが,青森の運送会社に帰り荷として仕事を出すこともあったようです。漢字が思い出せないですが,「しんせい運輸」だと思い出しました。 青森 新生運輸 - Google 検索 https://t.co/1acmNg8mGM 昭和60年代に見ていたのと同じような青森の新生運輸の大型トラックの写真がぞろぞろと出てきましたが,後ろの扉に大きな赤い文字で港とあるのは,ちょっと見た記憶がないです。 守田水産輸送は,金沢で三人兄弟がそれぞれ別の運送会社を経営しているとも聞いていましたが,大型保冷車の数は少なく,その割に長距離の運行が長いと聞いていました。同じ保冷車でも他の会社は冷凍食品など運んでいるという話でした。 金沢から青森まで鮮魚を運ぶと,青森から帆立貝を積んで九州に行き,九州から荷物を積んで金沢に戻るのが,一運行のパターンだと聞きました。ただ,その割に九州方面で守田水産輸送のトラックを見たことはなかったか,少なかったと思います。対向車としてすれ違うこともなかったです。 被告発人大網健二から売ってもらったアルトワークスの値段は50万円でした。笹田君からの買取価格と同じ値段と被告発人大網健二は言っていましたが,カーステレオのコンポなどを取り外したなどと言っていました。けっこういいのが付いていたような口ぶりでした。 被告発人大網健二はそれを当然のことのように話し,それでも不満があるいう口ぶりでした。一方の笹田君ですがお金に関する不満は言っていなかったように思います。だからなおさら理解に苦しむ話だったのですが,いきさつはともかく笹田君も新しい車を買ったことで満足をしているようにも見えました。 被告発人大網健二が神戸から戻った時期というのもすぐに思い出せないのですが,昭和63年のお盆には神戸から帰省していました。神戸から戻って最初の頃,車のブローカーをしているような話をし,福田自動車という名刺をくれたと思います。会社の住所は,金沢市高畠か,少なくともその周辺でした。 その辺りを車で通りかかって,それらしい車を見たような気もするのですが,私としては余り関心もなく,自分から内容を尋ねることもなかったと思います。 もともと車のトラブルであれば,被告発人松平日出男が出てこないのも気になっていました。笹田君として頼みづらいか頼みたくはない事情でもあるのかとは想像しましたが,それ以上のことはわかりませんでした。被告発人松平日出男が社員に車の売買をしたという話も聞くことはなかったように思います。 平成3年12月28日頃,諸江の焼肉店で,笹田君もいたと思うのですが,峰田君のことしか印象に残っていません。笹田君の姿がなければ,なにかあったのかともっと印象に残っていたという気はします。峰田君は割合,社交的で,笹田君の方はいくらか内向的だったとも思います。仲はとても良さそうでした。 平成3年12月28日頃ではと思ったのですが,この日は市場急配センターの仕事納めの可能性があり,だとすれば,違うような気もします。その日は,強い風で車のドアが歪んだこと,夕方にパチンコオークラに被告発人安田敏を探しに行ったことを憶えています。 ==== 平成3年6月,被害者安藤文さんに電話で言われた,どちらの安田 ==== ==== 平成4年2月1日の夜,自分で接近しておきながら,金沢西警察署の供述調書で私に発見されたような話にした被告発人安田繁克 ==== ==== 被告発人多田敏明が山三青果に行き,23時頃に戻るという話 ==== 午前中であったように記憶にあるのですが,それも11時ぐらいです。被告発人東渡好信だったと思いますが,私に聞かせるような感じで,被告発人多田敏明を山三青果に行かせた,今夜23時頃に戻る,というような話をしていました。対面の会話ではなく電話口だった気がします。 細かいことは思い出せないですが,23時というのは荷下ろしが終わる時間だと思いました。実際に被告発人多田敏明が会社に戻ったのは23時30分ぐらいだった気がします。その間に私は,被告発人安田繁克と諸江に買い物に行っていたと思います。 今考えると,この運行も不審に思えるのですが,28年も経っているので確認は難しいでしょう。というのも4トン車一台で,山三青果の荷物が積めたのか疑わしいのです。荷物のほとんどは白菜やレタスでかさばります。大型車でも荷物の少ないときはあったのですが,無理に詰め込めばおろすのも大変です。 山三青果の仕事は富山,高岡,金沢,福井と決まっていました。荷物の多いときは大型車2台,それにプラス4トン車ということもありました。23時に金沢にいるということは,夕市がなかったことも意味します。 山三青果の夕市についてはすでにご説明を記述しておりますが,夕市で2台以上ということは一度もなく,必ず4カ所積みでしたが,それでも荷物は少なめでした。 私もその感覚で23時頃にはちょうど仕事が終わると考えていたのですが,それは福井中継を出しての前提です。今まで気がつかなかったのですが,いつも中継に使っている4トン車で,別に中継に出したとは考えにくいところです。仮にあるとすれば2トン車でしょう。 福井の市場までは往復で考えると荷下ろしを含め3時間は掛かるのではと思います。23時30分に会社に戻るとなると,3時間前の20時30分には金沢中央卸売市場で荷下ろしを終え,出発していることになります。 市内配達と同じぐらいの荷物と考えれば,違うような気もしますが,富山から高岡の市場に行くのも,高速道路から離れているためけっこう時間が掛かるのです。高岡の市場から金沢も同じです。 それに4トン車だとある程度荷物を積めば,大型車ほど安定した走行はできなかったと思います。特に急がなくても21時前に,金沢中央卸売市場に着くことはなかった気がしますし,早くても20時台だった気がします。この時間は夕市で古河市を出発するような時間でもあります。 被告発人多田敏明の乗務していた4トンウィング車は,箱の大きさの割にタイヤが小さく見え,通常の4トン保冷車に比較すると,ずいぶん安定性が悪そうでした。高速道路でスピードは出せなかったと思います。 なお,被告発人多田敏明は市場急配センターの1階休憩室に10分から長くて30分ほどいて,家に帰ると言って帰って行ったように思います。機嫌が悪そうにはみえなかったですが,いつもと違う感じの無口さがありました。 ==== 珍しく22時頃まで会社に残っていた社員運転手 ==== 21時ぐらいなら他にもあったと思うのですが,その日は22時から23時近くまで運転手が集まり,雑談をしていました。 はっきり憶えているのは,被告発人東渡好信,浜上さん,七尾のMさんですが,これだと私を含めて4人になります。5人はいたと思うのですが,6人かもしれません。他にいたと考えられるのは河野さんになります。大分前からですが,この河野さんのことが不鮮明になっています。 数年間はばっちり記憶をしていたので,平成5年11月28日付の手書きの書面にははっきりしたことが記述されていると思うのですが,すでに述べているとおり,今のところ調べて確認はしない方針でいます。 よくそれだけ長い時間,集まって会話が続いたと思うのですが,17時から18時の間には集まって話が始まっていたはずです。16時頃から始まることも普通にありました。 今思い出して気になったのは,七尾のMさんのことです。今でも名前を覚えていて,間違っていないと思うのですが総合的な判断で名前は伏せておきます。1月に入り,片山津温泉の新年会が終わった後の入社であったと思います。 その前は七尾市の共栄運輸にいたという話でした。七尾市で鮮魚を運ぶ運送会社は,共栄運輸ぐらいで,他にあっても小さい会社だったと思います。保冷車の数では小林運送が多かったと思いますが,スギヨの専属で練り製品を運んでいました。 全部のトラックではなかったかもしれないですが,共栄運輸のトラックは箱の後ろに,お祭りの太鼓の紋章がありました。それで目立ったということもありますが,よく見かけていたので台数も多かったのではと思います。 七尾のMさんは,何度か1階休憩室の畳の部屋で泊まっているのを見ています。部屋といっても戸や襖のない部屋でした。広くて6畳だったと思います。小型テレビが置いてありましたが,あまりついていることはなく。テレビを見たとはっきり記憶にあるのは4月1日の星陵対堀越学園戦ぐらいです。 そういえば,この平成4年2月1日は土曜日でした。土曜日なので遅い時間まで集まっていたのかわからないですが,さきほどから気になっていた謎が解けました。 畳の部屋に泊まっているのを見かけたのは,被告発人東渡好信と七尾のMさんの二人だけです。輪島市の浜上さんも泊まっていたはずですが,はっきり見たという記憶はありません。2月頃にはアパートを探していて,見つかったというような話も,平成5年11月28日付の手書きの書面にありました。 そういえば浜上さんの乗用車というのが思い出せないのですが,乗務しているトラックで輪島まで帰っていた可能性はあります。被告発人東渡好信も乗用車を見かけるようになったのは,2月か3月に入ってのことだったと思います。 金沢から七尾と輪島では倍ぐらい距離があると思います。穴水町からだと輪島と宇出津は同じぐらいだったと思います。30キロほどです。金沢から七尾は看板に60キロというのを見かけていました。 Googleマップで経路を調べてみると,金沢中央卸売市場から宇出津まで121キロ,金沢中央卸売市場から輪島市までが111キロとなっていました。七尾市だと66キロと68キロの経路がありました。 ==== 偶然とは思えない裏駐車場での動き,被告発人安田繁克の車の通過 ==== 解散する少し前でしたが,裏駐車場の奥の方から会社の建物まで5人ぐらいで歩いていました。これもはっきり憶えているのは,被告発人東渡好信,浜上さん,七尾のMと私の4人だけです。直前に1人帰っていた可能性もあるかと思います。 その場の成り行きで特に疑問を持つことなくその場を歩いていたと記憶にあります。会話の流れでその場所にいたのですが,裏駐車場から外に出ることはなかったと思います。 用があって行くとすれば,金沢中央卸売市場の正面ですが,数人で集まって歩いていったようなことは一度もありません。市場前は早い店で22時には開いていたかもしれません。食事をする店です。ただ市場で荷下ろしが終わるのは早くて23時過ぎだったので,22時はないかもしれません。 22時から23時というのは金沢中央卸売市場で仕事が始まるような時間でした。午前中は人も多いですが,食事の店がやっているのも14時ぐらいまでで,そのあとは明るい時間でも真夜中のような人通りでした。 この市場急配センターの裏駐車場というのは,他にも重要な事実関係が詰まっています。今,夜に行くことはないですが,街灯のようなものは見当たらず,現在でも平成4年当時と,余り変わりはなさそうか感じです。 裏駐車場の一番奥から1階休憩室の裏口のドアまで中ほどを歩いているときだったと思います。市場急配センターの会社前の入り口の方から一台の車が入ってきて,ゆっくりと通過していきました。車高が高かったこともありますが,ヘッドライトがとてもまぶしくて,車の形ぐらいしかわかりませんでした。 これが後でわかる被告発人安田繁克の車だったのですが,驚いた様子を表情にみせたのは七尾のMさんだけでした。被告発人東渡好信と浜上さんは,うつむきがちでしたが,何も見ていない,なにごともなかったような様子で歩いていました。 裏口のドアから1階休憩室に入った場面が記憶に残っていますが,それからすぐに解散になったと思います。一斉の解散でした。なお,1階休憩室の前は休憩室と同じぐらいの空きのスペースで,外はシャッターになっていました。鍵などなく24時間,誰でも出入りができていました。 シャッターは3枚になっていて,夜や休日は1枚だけ,それも半分ぐらいの高さで開いていました。それも人がいるときで,誰もいないときはシャッターが降りていたと思います。夜中に仕事に来る人もいたようたようなので,夜は降りていなかったかもしれません。 ==== 金石街道に出る交差点の信号待ちで声を掛けてきた被告発人安田繁克 ==== ▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶ * RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2020-08-10 07:50/2020/08/10 07:48 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1292594123799580673 https://twitter.com/s_hirono/status/1292593615361867776
2020-08-10-073646_.Googleマップ 市場急配センターから若宮交差点jpg.jpg https://t.co/31CKkOakgT〒920-0025 石川県金沢市駅西本町4丁目2 から 〒920-0025 石川県金沢市駅西本町 - Google マップ https://t.co/yGSvoBYkF7 \n 北安江出雲線経由 4分 300m \n 北安江出雲線経由と金石街道/県道17号経由 5分 350m Googleマップでは若宮交差点となっていました。十字路の交差点で北安江出雲線となっていますが,平成4年当時は金石街道が突き当たりになる交差点でした。それでも数年前にできたばかりの新しい道路でした。 若宮という地名も平成4年当時は余り見覚えのないもので,平成9年当時は少し離れた場所に若宮大橋ができていて,その手前にノートパソコンとディスクトップパソコンを買ったパソコンの館という店がありました。その前の道路も新しくできた道路です。 その時間帯にしては珍しく,私の車の前にも1,2台信号待ちの車が停車していたと記憶にあるのですが,後ろに停車した車から人が降りてきて,合図をし声を掛けてきたのです。それが被告発人安田繁克でした。 金沢西警察署の被告発人安田繁克の供述調書では,彼が信号待ちをしていたところに,私がけんか腰で声を掛けてきたことになっているのですが,乗っている車を知らなかったので声を掛けること自体があり得ないことです。 被告発人安田繁克は被告発人多田敏明を探していると言いました。被告発人多田敏明が会社に戻る時間を聞いていたこともありますが,私の方から市場急配センターの会社に行って話そうと言いました。 Twilogで調べたのですが,被告発人安田繁克の車の車種に関する情報は見つかりませんでした。タイヤの大きな大型車でしたが,車の車高そのものは普通の高さで,2枚ドアの後ろが荷台になっていたと思います。トヨタの車だと思います。 ==== 市場急配センター1階休憩室で酒を飲もうと言い出した被告発人安田繁克 ==== 市場急配センターの会社に着いてすぐだったと思います。被告発人安田繁克が酒を飲もうと言い出しました。 諸江の24時間やっているコンビニのような酒屋に行って,酒やつまみを買ってきました。当時,金沢市内では,コンビニもまだ普及していなかったと思います。少し出始めていたような気もしますが,金沢中央卸売市場の周辺にはありませんでした。 けっこうな量の買い物をしてきたのですが,すべて被告発人安田繁克が支払いをしていたと思います。二人で飲み食いをする量には思えませんでした。食べきることはなかったと思いますが,残ったのをどうしたのか憶えていません。 二階の事務所には冷蔵庫があったと思いますが,冷蔵庫を使うようなことはなく,夜中に勝手に事務所に入ることもなかったので,鍵が掛かっていたのかもわからないですが。鍵を掛ける戸締まりの様子も見たことはなかったと思います。 被告発人安田繁克は黒の作業服で,暴走族の特攻服のような衣装でしたが,腕に縦書きの大きな刺繍で「松浦商店」と入れていたのが印象的でした。実在する店とは考えなかったのですが,彼の母親の愛人で,金沢市場輸送で最初にイワシのダンプに乗務したのが松浦さんでした。 ▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶ * RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2020-08-10 08:26/2020/08/10 08:25 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1292603080857407488 https://twitter.com/s_hirono/status/1292602856147582979
2020-08-10-082403_市場急配センターホームページ 代表者 堂野俊一.jpg https://t.co/chz0kgIagp今,確認しスクリーンショットの記録を行ったのが,市場急配センターのホームページにある「代表者 堂野俊一」で,確実に特定はできないですが,堂野さんで平成10年11月当時,自ら労務の担当者となのっていたのが,松浦さんの紹介でイワシの仕事を始めた人物です。 堂野さんが市場急配センターの社長になったという話は,直接聞いていないかもしれません。被告発人安田敏との最後の会話で憶えているのは,竹沢俊寿会長について,とっくの昔に死んでおる,というような話し方をしていたことです。 被告発人安田敏は堂野の親父というような言い方をしていたと思いますが,私がホームページで告発などの情報公開をしていることに,いつでも訴えられると言っていたと話していました。そのことについてもホームページで公開をしたと思います。 たぶんその次に被告発人安田敏に会ったときだと思いますが,堂野さんについて,市場急配センターの従業員というような,そんな感じの言い方をしていました。 従業員ではっきり憶えているのは,一度だけ金沢刑務所に面会に来た被告発人松平日出男で,パンツと何かを差し入れていったのですが,指印を押すのに帳簿を見ると,職業を会社従業員としていました。供述調書では,代表取締役社長となっていたと思います。 ==== 山三青果の運行から戻りしばらく1階休憩室にいた被告発人多田敏明 ==== 被告発人安田繁克と諸江の酒店から会社に戻り,少しすると被告発人多田敏明が休憩室に入ってきました。午後11時から11時半の間だったと記憶にあります。被告発人多田敏明はおとなしく無口で,被告発人安田繁克との間にも会話はほとんどなかったと思います。 もともと被告発人多田敏明を探しているというのが被告発人安田繁克が私に接近してきた口実だったのですが,用事があるようなそぶりは全く見せておらず,少しすると,帰ると言い出した被告発人多田敏明を引き留めることもありませんでした。 28年前の記憶で,それらしい記載の書面も読んでいないのですが,強く印象に残るのは,被告発人安田繁克が酒屋で買ってきた商品の量でした。それを机の上に並べていたはずです。後から入ってきた被告発人多田敏明もそれを見ているはずになるのですが,無反応で疲れた様子にも見えました。 この2月1日の夜のこともけっこう長い間,鮮明によく憶えていたと思います。知る限りのことを詳細に記述しているはずです。ただ,最初の頃は,この2月1日を全く違った時期と取り違え,後になって自分の記憶違いに驚いたようなことを憶えています。 この2月1日は特定がしやすい日でした。この土曜日に福岡行きのミールを積み込み,会社の指示のままよく考えずに,月曜日に出社をしてから福岡に出発しました。夕方のフェリーに乗るのに向かったのは神戸市の魚崎だったと思います。 ==== 被告発人安田繁克が話し始めた被害者安藤文さんとの関係,交際を否定 ====
28年前の記憶になりますが,この平成4年2月1日の夜,深夜の2時頃まで市場急配センターの1階休憩室で被告発人安田繁克と話をしていました。2時に被告発人安田繁克と別れた後のことは,現在思い出すことがなく,2月2日の昼と夜のことも同様です。たぶん今は思い出せないこともあるのかと思いますが,思い出せる範囲で被告発人安田繁克は私に次ぎのようなことを話していました。
(ア) 1月25日の夕方,小走りで涙を拭う仕草で退社この1月25日のことは夕方16時ぐらいからのことしか記憶にないのですが,珍しく早めの時間から暇を持て余し,被告発人安田敏が2階事務所のコピー機で1万円札をコピーしていたのを憶えています。 被害者安藤文さんの退社時刻は17時でしたが,だいたい17時10分頃の退社が多かったように思います。定時前に彼女が退社する姿を見たのは,その1月25日だけでした。 17時の定時の5分か10分前でした。彼女が涙を流す様子で,うつむきながら小走りに1階休憩室の前を通り抜けて行きました。手で涙を拭うような姿もあったように思うのですが,あるいは勘違いかもしれません。 1月22日に,大きなハサミのことがありましたが,それから25日の午後まで,ぶっ通しのような仕事になって,市場急配センターの会社には顔を出していなかったと思います。ミールを積んで三重県の四日市市に2,3往復するという運行もありました。 1月25日,被害者安藤文さんはいつもと違った服装でした。セーターを着ていたように思いますし,色は黒だったように思います。首にネックレスが掛かっていたのですが,私がクリスマスに贈ったものとは,長さが違うように感じました。 このネックレスのことは,谷内孝志警部補が作成した供述調書で,読んだ憶えがあるのですが,母親が被害者安藤文さんにせがまれて買い与えた,というような話になっていました。 谷内孝志警部補は,このネックレスのことをけっこう重視している様子でした。交際が嫌だから受け取らなかった,というような解釈です。ここで思い出したことがあります。3月5日の電話で,ネックレスのことを直接,彼女に尋ねました。 ネックレスは金色で,私が贈ったものと同じ色でしたが,黒い服にずいぶんと目立っていました。彼女が身につけていたものが長めだったかもしれません。買ったとき,この長さで首に巻けるのかと,不思議に思ったような記憶があります。 被害者安藤文さんが私のことで会社で泣き出したという話は,他にも聞くことがありましたが,しばらく前,2階事務所でネックレスと一緒に姿を見たときは,割合,落ち着いて見えました。
(イ) 1月25日の夜,被害者安藤文さんの自宅に掛けた電話これも前に別のところで記述をしていると思いますが,時系列でまとめておきます。退社する時の思い詰めた彼女の様子が気になり,自宅に電話をしました。1月12日以来になると思いますが,その時は彼女本人が電話に出ました。 1月に入ってからも初めの頃に彼女の自宅に電話を掛けたと思います。本当は年内に彼女との関係のけりをつけたいという思いがあり,年末の方にいくらか集中して電話を掛けたのですが,これは出る気がなさそうだと思いました。 年末年始ともに母親が電話に出ました。母親以外が電話に出たのは,兄が1,2回,父親が2回になります。兄が出た電話というのは思い出せなくなっていますが,一度目は12月中であったように思います。 年末年始の電話は,不思議なほど母親の対応が普通でした。いくらか好意的だったとも思います。12月24日の夜には,赤いバラの花を10本,自宅に届けているので,母親もそれを知っている可能性が高いと思っていたからです。 しかし,一度だけ,母親が電話口で警戒感を示すような対応をしたことがあり,それが,この1月25日の夜の電話だったと思うのです。そのあと2月の半ば過ぎにも彼女の自宅に電話を掛けたと記憶にあるのですが,父親が2回目に電話に出ました。
(ウ) 被害者安藤文さんと少し話をした津幡町能瀬からの電話被告発人梅野博之と被告発人池田宏美が邪魔をしてなかなか電話に出てくれなかった被害者安藤文さんだと思うのですが,ようやく電話に出たときも,不機嫌というのか,私に対して強い不満がありそうな態度でした。 例えば,「はあ~ん」ってな感じで,強い不満を表現した被害者安藤文さんでしたが,具体的な言葉は今,思い出せないでいます。その態度もあり,私は反射的に次のように彼女に申し向けました。 「俺,田舎もんやし,文ちゃん,何考えとるかわからんし,これ以上かかわっとったら文ちゃん傷つけてしまいそうやし,諦めるわ」というようなことを言いました。それに対する被害者安藤文さんの反応も,今現在思い出せないところですが,わざとらしいような怒り方でした。 === 平成4年2月 === === 平成4年3月 === ==== 平成4年3月23日の夜,被害者安藤文さんの自宅に掛けた電話 ==== ==== 最初に被害者安藤文さんの方から掛けてもらった電話 ==== この夜の電話のことを,私はずっと夜の22時台で遅い時間だったと考えていたと思うのですが,最初に被害者安藤文さんの方から掛けてもらったことを考えると,私の方で時間指定をしていて20時の可能性が高いと思えてきました。 この3月23日は,午後だったように思いますが,金石街道沿いの喫茶店で,被告発人松平日出男と被害者安藤文さんの3人で話をしています。その場で,夜に電話を掛けてくれるように頼んだとも思います。 6月の初めになると思いますが,平成5年11月28日付の手書きの書面を部分的に読んでいたところ,3月23日の夜の電話と,3月5日の夜の電話で,記憶が混同しているように思われる箇所がありました。 3月5日の夜の電話は,長い通話時間ではなかったと思いますが,現在憶えていることも少なくなっています。 市場急配センターの会社にいる被害者安藤文さんに電話を掛け,夜に私の自宅アパートに電話を掛けてもらったのは3回だったと思います。10月5日,3月5日,そして3月23日ですが,前述の通り,喫茶店で彼女に口頭で伝えた可能性もあります。 喫茶店にいるときの彼女は,うなずくような返事以外に言葉はなかったと思いますが,感情を抑えているようにも見えました。電話に出た被害者安藤文さんは,そこ堰が切れたかのように,勢いよく次のように話し出しました。 「私,広野さんに私の気持ち伝わっとるとばっかり思うとった。」 それに対して私は,ちょっとふざけたような声で,「なんやそれ?」と言い返しました。逆上というほどではなかったですが,やや感情を高ぶらせ,彼女は次のように言いました。 「私,広野さんとつきあう気持ちないってこと。好きな人おるって,付きあっとる人おるってこととおんなじことやろ」 あとで冷静に考えれば,違った解釈というか受け取り方もできたと思うのですが,そのあとの私の言葉で,彼女はすすり泣きを始めることになります。 ただ,これは私がかけ直した後の会話になると思います。そのまましばらく時間が過ぎ,一度,彼女の母親が電話口に出る感じで,「いつまで話とるが」と軽く注意をするようなことを言い,私の方から電話を切るまで通話が続いたはずです。 彼女の家の電話は,当時最新に近い電話機で,ワイヤレスの子機があったようです。直接見ていないので想像と推測になりますが,10月12日の電話では,彼女が電話機をもったまま会談を駆け上るような物音が聞こえていました。 ==== 出先の金沢市久安から掛けているという被害者安藤文さん,両親と話をするつもりで自宅に掛け直すと,すぐに彼女が出た ==== 昭和の時代のバラエティのようなテレビドラマで,夜に屋根の物干し台のような場面が決まって出てきたと記憶にあったのですが,車が通過する物音も聞こえていたので,彼女はベランダのような物干し台で,外から電話を掛けている様子が感じられていました。 車が通行する音から外には間違いないと思ったので,どこにいるのかと彼女に確認しました。彼女は久安にいると,答えたと思います。彼女の自宅があると聞く住所から比較的近くには思いましたが,信号待ちもあるので車で5分程度はありそうに思いました。 彼女が自宅ではなく外にいるということを知ったので,この機会に彼女の自宅に電話を掛け,両親に彼女の不可解な言動について説明し,親としての指導監督を促すつもりでした。 平成5年11月28日付の手書きの書面では,この久安のことを3月5日の出来事のように書いてあったと思うのです。外にいるはずの彼女が自宅の電話に出たのは驚きでしたが,先日記述を済ませたところの,1月21日深夜の電話でも,午前2時頃に彼女が出ました。 ==== 3月28日夜の電話で印象的なのは,電話口に時代劇のテレビドラマの音声が聞こえていたこと ==== まだ一月は経っていないと思いますが,宇出津の図書館で平成4年3月の北國新聞縮小版のテレビ欄を調べてきました。今確認はしていないので,やや記憶が不確かともなっているのですが,20時からの放送ということはよく憶えていて,ドラマは「大岡越前」だったと思います。 ずっと長い間,22時台の電話で,22時台に放送のテレビの時代劇という感覚でいました。今では年に数回しか見かけることがなくなった時代劇ですが,平成4年当時はまだ数が多かったと思います。 平成4年当時より少し前の年代になるかもしれないですが,たぶん日曜夜10台の放送として,印象深く記憶にあるのが,「必殺仕事人」になります。2ヶ月ほど前になるのか,今年は夏に近い時期に年に一度と思われる放送をみました。「必殺仕事人2020」となっていたと思います。 ==== 3月23日の夜の電話,のんきのも思えた被害者安藤文さんの母親の声 ==== さきほど考えていたのですが,他の電話機からの割り込みの声であったように思えます。被害者安藤文さんは,ずっとすすり泣く様子で,ほとんど話しませんでした。 「彼氏おるんやったら,彼氏だけにしておけや,ほんでいいやろ」などと,私は何度も彼女に確認を求めていたのですが,彼女は答えることなく,その繰り返しのときに母親の声が聞こえたと思います。そして,もう一度ぐらい同じ問いを繰り返し,返事がなかったので電話を切りました。 当時の最新の電話機の機能は,よくわからないのですが,市場急配センターの会社の電話も新しいもので,2階の事務所と1階休憩室の間の電話機で通話ができました。専用のダイヤルがあったとも思います。 2階の事務所は電話機が少なくとも被告発人池田宏美,被害者安藤文さんの机にあって,たぶん被告発人松平日出男の机にもあって,被告発人梅野博之の机にもあったと思うのですが,電話番号は1つだけでした。 その割に話し中というのが余り記憶になく,1つの電話番号で一度に複数の通話ができたのか不明です。1階休憩室の電話は,余り鳴ることがなかったとも思います。 その1階休憩室の電話で,唯一外部からの電話で,電話を取ったと記憶にあるのは,3月の最後の日曜日の午前中,被告発人安田敏に掛かってきた女性の電話でした。顔を合わせても話はしていなかったと思いますが,その場で被告発人安田敏と二人だけで居合わせたのも気になる偶然です。 電話口で娘がすすり泣いているのに,母親が側にいて動揺しないというのもおかしなことと思っていました。すでにその前の電話で,彼女の母親が私に対して,警戒感を示す態度を見せることがありました。1月25日かと思います。 2月の半ば過ぎにも一度,被害者安藤文さんの自宅に電話をしていると思うのですが,そのときは1月21日の夜以来,2度目に父親が出て,このときは被害者安藤文さんに対して,怪訝を向けた様子で,電話に出るのか確認をしている様子が伝わりました。 平成5年の5月か6月と思う,控訴審で,判決前最後となった審理で,被害者安藤文さんの母親と思われる女性の姿をみました。出入り口前の一番後ろの席で,安藤健次郎さんと一緒に座り,ずっとうつむいたまま泣き続けている様子でした。 たぶん,被告発人小島裕史裁判長は,その審理の公判で結審をする腹づもりだったとも考えられるのですが,次回判決という告知はありませんでした。 その3月23日の夜の電話は,それほど長くなっていなかったと思うのですが,11月25日の夜の電話か,10月12日の電話がかなりの長電話となっていました。やはり10月12日だと思います。それも遅い時間に掛けた電話でした。私の自宅アパートに掛かった無言電話がきっかけです。 彼女の母親の声は,「いつまで話とるがぁ」でしたが,不満をぶつけたものの優しい声でした。なにか他に電話が掛かるとか,そういう用事があったのかもしれません。 そういえば,一度,彼女の自宅の電話で,会話中に他から電話が掛かり,切り替えをするような話が出たかもしれません。これはずっと眠っていた記憶で,それも曖昧模糊としています。 ==== 今から東力2丁目の自宅アパートに来るようにいうと,「行ける,行けるけど,今日は行けん」と答え,理由を問い詰めると「怖い」と答えた ==== 彼女の生活ぶりというのは,実際よくわかっていなかったのですが,2月中に,小杉インターと富山インターの間にある呉羽パーキングエリアから掛けた電話での,彼女の二面性を強く印象づける言葉が大きくありました。 彼女の反応を試すという目的で,「お前,今から俺のアパートに来い。一発やらせるか,土下座をせい」などと申し向けたのです。これも繰り返し問いただしたのだと思いますが,時間が経ってから「行ける,行けるけど,今日は行けん」と彼女は答えました。 そして理由をたずねると,これも時間をおいて「怖い」と答えました。私は,「怖くさせたん,お前やろ,怖けりゃこんでいいわい。彼氏おるんやったら彼氏だけにしておけや。彼氏かわいそうやろ。」などと説教をする感じでいいました。 私は彼女と関わることで,危機感を募らせるようになっていました。一方で,私がこの電話で終わりにするという趣旨の「ほんでいいやろ」という確認に対して,彼女は最後まで返事をしなかったことで,やはり彼女のいう彼氏が,最初から自分のことなのかとも考えました。 ==== 平成4年3月23日の夜の電話を終えてから同年4月1日の傷害・準強姦の日を迎えるまでの状況 ==== 3月24日から3月31日になりますが,4月1日の午前中までは,彼女との関係がそれまでになく良好で穏やかだったと思います。3月23日の喫茶店でも,彼女は何か反省をしたような様子でした。紺色で地味目のよそ行きの高そうな服を着ていたことも印象的でした。 平成5年11月28日付の手書きの書面を見れば細かく確認できることもあるのですが,今は自分の記憶のまま,わかる範囲のことを記述していきます。この間に運行は3回あったと思います。 3月29日が日曜日だとcalコマンドで確認しました。土曜日の夜は関係者KYNの黒田二丁目のマンションに遊びに行き,そのまま朝まで寝ていました。起きたとき仕事に出たと聞いたので,すぐに出て自宅アパートに戻りました。 calコマンドのカレンダーをみると,24日から26日の運行,26日から28日の土曜日までの運行,休み明けの30日から4月1日までの運行があったものとわかります。 26日の運行というのが,今ひとつ記憶がはっきりしないのですが,浜上さんと高岡市の中越パルプ工業で荷物を積み込み,昼の明るい時間に有磯海サービスエリアで一緒に食事をしたのが,この運行の時になるのかと思われます。 とりわけ印象に残るのが,24日に出発したと思われる加賀市から宇都宮市への運行でした。 3月30日に出発した市場急配センターで最後となった運行は,行きの荷物の記憶はないものの,茨城県古河市の山三青果に着いてからのことは,割合鮮明に記憶に残っています。そこで4月1日に,夕方仕事が終わってから会うという約束を電話でしました。 ==== 加賀市大聖寺の大同工業から栃木県宇都宮市に荷物を運んだ運行 ==== 大同工業はオートバイのチェーンで有名なメーカーでしたが,最初に加賀市の会社だと知ったのも驚きでした。昭和60年に中西運輸商の仕事で初めて行き,熊本県の阿蘇山の麓のような場所まで荷物を運んだのも印象的によく憶えています。 前にネットで調べたところ,正確には大聖寺ではなく,加賀市熊坂が住所になるのかもしれません。ただ,私の記憶では大聖寺の町中にありました。 加賀温泉郷の片山津温泉,山中温泉,山城温泉に比べ,知名度は低そうですが,市役所もある加賀市の中心部が大聖寺と聞きます。大聖寺藩という藩政の歴史もあるようです。 昭和20年代,戦争中の軍事工場のように見えたのも印象的な大きな工場でした。古い建物に見えたので,実際に軍事工場として使われた歴史もあったのかもしれません。石川製作所では,爆弾や魚雷の荷物を金沢市場輸送に続き,市場急配センターでも運んでいました。 この運行の時は珍しく,市場急配センターの会社に立ち寄らないで,そのまま宇都宮市に向かったと思います。会社では事前に運行費をもらうのがいつものことだったと思います。加賀市に荷物を積みに行くときにもらっていたのかもしれません。 宇都宮市でのこともいくつか少し記憶に残っています。会社の名前が政治団体のようだったので印象に残っていたというのもあります。平成5年11月28日付の手書きの書面でもその会社名が出てきて,少し驚いたのですが,そのしばらく前にネットの検索で社名は探し出していました。 昼に宇都宮市内の書店に立ち寄り,恋愛の本を手に取って少し読んだことはよく憶えていたのですが,平成5年11月28日付の手書きの書面には,ほとんど思い出せないようなことが書いてありました。 市場急配センターで加賀市の大同工業に行ったのは,一度しか記憶になかったのですが,平成5年11月28日付の手書きの書面によると,往復の荷物だったというのです。帰りに運んだのが空タックなどとなっていました。それ以前の記憶でも荷物はホイールだったと思っていました。 ホイールと聞いていましたが,乗用車やトラックのホイールではなかったとも思います。ラックに載せて運ぶホイールだったのでしょう。なんとなくは憶えていますが,特殊そうなものに見えたと思います。 平成5年11月28日付の手書きの書面では,さらに驚くことが記述されていて,同じ宇都宮市行きの仕事を前にもやって3月24日の運行は2度目だったというのです。私は3月24日を間違って2月24日としていることも,最初は考えていました。 けっこう細かく事実が書いてありましたが,それでも隙間のようなものがあって,思い出すこともできずもどかしさを感じていました。前にも同じ仕事で宇都宮市に行っているとすると,2月24日の可能性があるようにも思えてきました。 たぶん2月24日というのは,運行上は,愛媛県の松山市の近くで積み込んだイヨカンの荷物を,新潟でおろしたことになっているはずですが,夜中に新潟で荷下ろしをして,夜中の2時か3時頃には金沢に戻っていました。 このときも諸江の24時間営業のような酒屋のコンビニのような店で買い物をし,市場急配センターの会社に戻ってから1時間ぐらいは,大型トラックの運転席で,被告発人多田敏明と話をしていたはずです。新潟への運行に彼を同乗させていました。 今,業務日報で確認したところ,2月24日から26日は,確かに協共でホイル,宇都宮となり,帰り荷が石灰で,丸一が荷主,栃木から七尾となっていました。小杉インターで降りた領収書が8,400円となっています。 ちょうどその頃に,栃木県内で石灰を積んで七尾市に向かったとき,関越トンネルで通行止めに遭遇し,大渋滞で七尾市に着いたのが夕方近くということがありました。 午後になっていたと思いますが,大渋滞から抜け出し,関越道に乗ったのは,はっきり思い出せないですが,越後川口インターの辺りだったと思います。今,Googleマップで場所をみると,小千谷市の近くでした。 小千谷市の次が,北陸自動車道との分岐点にもなる長岡市になります。余り思い出せないのですが,これを見ても関越トンネルだけの通行止めではなく,湯沢インターから次に通行止め解除に関越道のインターに乗るまで,早朝から午後まで時間が掛かったように思います。 他の領収書をみていると,2月13日に富山インターで降りたのが10,800円となっていました。山三青果の仕事なので,この時期なら群馬県の高崎インターから乗っていた可能性が高いと思います。 栃木から七尾市に向かったときは,富山インターの一つ先の小杉インターで降りています。その料金が8,400円だと,通行止めに遭い新潟県内の関越道のインターから乗っていた可能性も出てきそうです。これはいずれも大型車の料金になります。 以前,この2月下旬とも3月上旬の運行とも考えていた,我孫子警察署で大型車の通行許可証をもらった運行が,運行日報の記録で,2月13日付の通行許可申請書を確認しています。午前2時から午前10時までともなっています。 2月12日付として花園インターで降りた領収書が11,050円となっています。日付が変わる前に降りていたようですが,当時の高速道路の領収書に時間の刻印はありません。これもどこのインターから乗ったのか気になっています。 ふと,給油の領収書を見たところ,3月1日付で,「R-8カナザワSS」となっていて,時刻は13時30分となっています。今頃気がついたのですが,太陽鉱油のカードは,市場急配センターではなく金沢市場輸送のようです。「カナザワイチバ ユソ」となっています。 運行が2月28日から3月1日となっていたので,これもcalコマンドで確認したところ平成4年は2月が29日までありました。太陽鉱油の領収書は国道8号金沢という意味の記載でしたが,場所はほとんど河北郡津幡町で,検問所の近くだったと思います。 13時30分に津幡で給油となると,高岡市の中越パルプに荷積みに向かっていた可能性があります。道も混む昼に津幡に給油に行ったことは少なく,一度だけ,急に入った仕事で北陸ハイミールから七尾市に向かうときに,立ち寄り給油をしました。能瀬からの電話の時です。 市場急配センターの業務日報と領収書ですが,被告発人松平日出男は見つからないといって3月分は渡してくれませんでした。 2月28日から3月1日の業務日報には,荷主が「北都ん」となっています。運行指示書にも同じ「北都ん」とあるのでまねたのかもしれないですが,おかしな書き方です。それに北都運輸ならば,前年7月の7月頃には,倒産したと新聞に出ていました。 積み荷と思われる「品名」の項目が,「B脂」とあり,小松市からの積み込みとなっていますが,これはよく憶えている仕事でした。食肉の工場に皮を剥いだ大きな牛が上からぶら下げられていました。けっこう衝撃の光景でした。 運行指示書には大宮,業務日報には埼玉県大利根とありますが,この多分牛脂の荷物の卸先は,東北自動車道を走行中に見える工場であったように思います。たしか地名が羽生などとなっていたように思います。 そもそも大宮というのが,東北自動車道からは離れているのではないかと思います。大利根というのは聞いたことがありますが,調べてみないと場所がわかりません。 Googleマップで検索しても大利根という地名は見当たらないものの,情報が加須市に集中しています。その加須市の左上には羽生市が見えました。 国道125号線が,栗橋で国道4号線にぶつかっていますが,その辺りもよく通行する道路でした。馬鈴薯を運んだ東京の大田市場から古河市に向かうときも,栗橋で国道125線から国道4号線に出ていました。 加賀市の大同工業で荷物を積み出発してからは,国道8号線沿いの北陸食堂で食事をしたように平成5年11月28日付の手書きの書面には書いてありましたが,被告発人多田敏明を連れて,岐阜県大垣市から石灰を積んできた帰りも,北陸食堂に立ち寄ったようなことが記述されていました。 ざっと2月の業務日報に目を通したところ,2月14日に大阪の本場市場に行き,空荷で戻っていたのも意外でしたが,その次の運行の出発が2月17日となっていました。 その2月17日の業務日報には,小林運送の仕事で,豊橋から小松・金沢となっていますが,渥美と書いてあったところに訂正線が入り,下に豊橋と書き込んであります。空荷で向かった運行になりそうですが,名北の市場で馬鈴薯をおろしたあとに向かったものと考えていました。 平成5年11月28日付の手書きの書面では,栃木県での石灰の積み込み先を,葛生町と鍋山に分けていました。今,Googleマップで確認すると鍋山が栃木市だったのは納得したのですが,葛生町が佐野市になっているのは,ちょっと驚きでした。当時は郡部だったような気もします。 そういえば阿蘇に似た漢字の郡部があったことを思い出しました。調べたところ「安蘇郡」とあります。読み方まで熊本県の阿蘇と同じ「あそ」ぐんのようです。 宇都宮市内から石灰を積みに向かうのに,どの道を通ったのかも気になるところですが,余り記憶にはないものの一度だけ,佐野市内とは,逆方向から向かったような記憶は漠然ですが,あったような気もします。 ==== 協共運送の仕事だった加賀市の大同工業から栃木県宇都宮市への運行 ==== 業務日報にも荷主が「協共」とあるのですが,協共運送のことだと思います。あるいは協共運輸かもしれないのですが,河北郡津幡町の国道沿いにある運送会社でした,立ち寄ったことはなかったですが,広い道路で会社の前を通過したことはありました。 金沢市場輸送の藤田さんが再就職先としたと聞いていた運送会社になります。平成5年11月28日付の手書きの書面に協共運送の仕事で宇都宮市という記述を見たとき,ちょっと驚いたように思います。 協共運送のことで強く記憶にあるのは2月の初めの九州,福岡市への運行でした。九州に協共運送の営業所があるらしく,九州自動車道から何度か電話を掛けさせられていました。 福岡県の福岡市と久留米市の間で佐賀県になる鳥栖市は,九州の交通の大きな分岐点となり,長距離トラックのガソリンスタンドが多く,トラックステーションもある場所でした。中西運輸商でも帰りの荷物待ちで,よく連絡待ちで待機をさせられていた場所になります。 それだけに思い出の場所でもありましたが,一晩泊まるといたたまれなくなり,私は被告発人松平日出男に空車で帰ると言って,九州自動車道に乗ったのです。鳥栖インターから太宰府インターがあって,その先が福岡インターだったと思います。 その太宰府インターと福岡インターの間の辺りに,パーキングエリアがあって,被告発人松平日出男の強めの指示で,そこから協共運送に電話を掛けさせられていたのですが,中西運輸商のとき一緒だった運転手が,代わる代わる電話口に出ました。 一人は口髭と顎髭がつながった人で,よくある名前の人でしたが,福岡県大牟田市に家があると聞いていました。もう一人は,九州出身なのか憶えておらず,関西弁だったと思うTさんでした。 当時の石川郡野々市町に大きな立派なマンションがあって,飲み屋のママらしい女性と同棲をしていて,一度遊びに行ったことがありました。女性とあったのもその場が初めてだったと思います。 そのあと平成2年か,あるいは平成3年の春先になるのか,一度,国道8号線沿いから少しだけ離れた小さな工業団地のような場所,当時の能美郡,現在の能美市になる川北町と思います。そこに仕事に行ったとき,行った先の工場で,Tさんに出会い,驚いたことがありました。 同じ工場か確認できませんが,ちょうど同じ工業団地にある工場が,オウム真理教の教団に買収され,アジトのようになっていたと,何かの情報で知りました。 オカムラ鉄工乗っ取り事件 - Wikipedia https://t.co/qpW4aHqD04 社長は教団の在家信者で、教祖の麻原彰晃に相談したことから、 教団が経営に関与することになった。麻原は「2ヶ月で無借金経営にする」と豪語し、1992年(平成4年)9月14日に自らが社長に就任 した。 社長がオウム真理教の在家信者という情報は初めて見たように思います。穴水町に別荘地があって,国道249号線からは離れているので,滅多に通る場所ではないのですが,そこもオウム真理教で死刑を免れた主犯格の医師の潜伏先だったという情報を見かけています。 オカムラ鉄工は,川北町ではなく寺井町とありました。そもそも川北町には工業団地がないのかもしれず,工業団地という名称は記憶にないのですが,国道8号線が間近に見える場所に,工場がいくつかあって,工業団地らしい感じにはなっていました。 # 麻原を石川県で見た! オカムラ鉄工 岐部哲也、林郁雄逮捕 松本剛 - YouTube https://t.co/RBnBhmOZTq 今,Googleマップで寺井町を調べてみると,驚くほど狭い範囲でした。昭和61年には,朝のマルエーの鮮魚の配達で,松任店,美川店,そしてこの寺井店が毎日の配達先でした。手取川から小松市側になるようですが,手取フィッシュランドの住所も能美市粟生町となっています。 今は白山市となっている松任市ですが,松任市と小松市の間には,海にも面した美川町と,国道8号線から山側の寺井町が,知名度の高い地名としてよく見聞きしていたものです。道路の標識にも美川と寺井がよくありました。 中西運輸商でメインの仕事だったのは佐川急便の広島・九州便で,福岡市内には福岡店と,東福岡店がありました。九州のコードは01から09だったと思いますが,東福岡店は014などとなっていたように思います。 福岡店は太宰府インターで降りて,福岡市内に戻るかっこうで,国道3号線沿いの右手にありました。金沢市場輸送で多かったトナミ運輸の福岡便も,その先になりますが,福岡市内に入った頃の左手に,九州西武運輸の会社があり,そこで荷下ろしをしていました。 佐川急便の福岡店は,九州全域の荷物の中継点となっていて,東福岡店は福岡市内の配達を拠点としているようでした。中西運輸商で,帰り荷として荷物を積んだのは,東福岡店になります。住所は思い出深くもある箱崎になっていたかもしれないですが,国道3号線よりは山側でした。 もともと中西運輸商で一緒だったYTと藤田さんは,中西運輸商がやっていた広島・九州便を奪い取り,自分らが配車をするという目的を明らかにし,そこで選んだ運送会社が,なじみでもある私が運転手をしていた金沢市場輸送になります。 金沢市場輸送を退社したあとの,再就職先が,YTは守田水産輸送の子会社であった金沢市示野に事務所があるという都商事,藤田さんが河北郡津幡町の協共運送という違いはありました。 この話は,もともとあのワンマン社長の中西運輸商から仕事を奪うという点で引っ掛かりがあったのですが,平成2年2月の初めに福岡の協共運送の営業所に電話をさせられた時点では,目的を達成したのかと思える状況でした。 なお,私は一度だけ,金沢市場輸送の保冷車7599号で,中西運輸商の下請けとして,佐川急便の九州便をやったのですが,当時,戦前の軍隊のような教育が徹底していた佐川急便では,会う佐川急便の社員すべてに挨拶をするという決まりで,金沢市場輸送の運転手は端から相手にしていませんでした。 今では全く情報を見かけないので,知らない人が多そうですが,当時の佐川急便というのは,軍隊式の過酷な労働で有名を馳せていました。私が長距離の仕事をしていた昭和60年は,ちょうどその分岐点で,山口支店にも査察が入り,しばらく待機するように指示を受けたことがあります。 もう少しあとには,大きな政治問題となった佐川急便で,当時の創始者でカリスマ的存在とされた佐川急便のトップが,金沢市内の女友達を車で送迎した病院で,裁判所の追及を阻止していたことは,金沢刑務所の拘置所にいるときに,ニュースで見たという記憶もあります。 時刻は21時41分になります。台所で午後に冷蔵庫に入れ,半解凍状態となっていたキンキを焼いて食べたのですが,思い以上の期待外れで,まるで赤魚でした。アメリカ産となっていたので,余り期待はしていなかったのですが,250gぐらいはあったので,いくらかの期待はありました。 事前にネットで調べたところ,アメリカ産というキンキは,アラスカ産の可能性がありそうです。キンキはロシア産の冷凍もあるという情報でした。アジやサバもそうですが,近年は脂の落ちた魚が目立っているとも感じるところで,地球規模の環境の変化になるのかもしれません。 今日もどんたく宇出津店では,銀ダラの弁当が半額で1つだけ残っていて,最初に手に取ったのですが,あとにはコンブ巻きのサバの寿司に寿司に交換しました。値段も半分ぐらいだったと思います。鮮魚には石川県産の鱈の切り身も目立ったので,確認をしたのですが,やはり銀ダラとなっていました。 YTが私に金沢市場輸送で中西運輸商の広島・九州便を引き継ぐため配車係をしたいと連絡を寄越した頃,一度,彼の自宅に行ったのですが,それも松任市の外れで川北町に近い,オレンジ団地という振興の住宅地の集合住宅でした。 以前の検索では情報が出てきたのですが,今,Googleマップでオレンジ団地を検索すると,情報が見つかりませんなどと出てきました。 Googleで「松任市 オレンジ団地」,「石川県 オレンジ団地」と検索をしても情報が見つからなくなっているようです。Twilogには情報が残っていると思います。 ▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶ * RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中) 日時:2020-08-23 21:56/2018/12/04 16:11 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1297518192407924736 https://twitter.com/kk_hirono/status/1069851697789382661
団地といっても、大きなところではなく、公設の住宅とも聞いてはいなかったように思うのですが、名称が変わっていたので、よく憶えています。まだ調べたことはないのですが、「オレンジ団地」と聞いていました。あるいは平仮名で「おれんじ団地」とも考えられます。▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶ * RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中) 日時:2020-08-23 21:57/2018/12/04 16:13 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1297518219960283137 https://twitter.com/kk_hirono/status/1069852186966802432
Googleマップでは、「オレンジ団地」としても「おれんじ団地」としても該当はありませんでした。全国的に見れば、ありそうに思っていたのですが、思っていた以上に珍しい名称だったようです。▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶ * RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中) 日時:2020-08-23 21:57/2018/12/04 16:18 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1297518277241925633 https://twitter.com/kk_hirono/status/1069853461003423744
Googleで、オレンジ団地や白山市、松任市との組み合わせで調べましたが、それらしい情報は見つかりませんでした。当時の松任市の最果てのような場所で、新しい建物だったことも記憶に残っています。▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶ * RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中) 日時:2020-08-23 21:57/2018/12/04 16:27 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1297518350671568897 https://twitter.com/kk_hirono/status/1069855629924171777
Googleマップでそれらしい場所を見ていると、先ほどの検索結果で少し見かけていた「信開ウェラコートオレンジ」というのが出てきました。ただの建物の名称だと思っていたのですが、新開オレンジマンション、A棟、B棟が隣接しています。通称がオレンジ団地だったのかもしれません。▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶ * RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中) 日時:2020-08-23 21:57/2018/12/04 16:30 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1297518417218400256 https://twitter.com/kk_hirono/status/1069856452947263488
YTが金沢市黒田に住むようになったのは、そのあとだったのかもしれません。オレンジ団地の住所は源兵島町になるのかもしれません。聞いたことはない地名ですが、道路標識としては見かけていたような気もします。刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中(@kk_hirono)/「オレンジ団地」の検索結果 - Twilog https://t.co/pogz84nhto 奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(@hirono_hideki)/「オレンジ団地」の検索結果 - Twilog https://t.co/XosVt14JWg ツイ ートが見つかりませんでした もう8年ほど前になると思いますが,昼に宇出津新港の堤防の先端近くの曲がり角付近で魚釣りをしている人と,会話をしていたところ,YTの運送会社で運転手をしたいたという話を聞きました。余り記憶に残っていませんが,釣り道具の小物がとても多かったことが印象に残っています。 記憶が薄れているものの,YTが経営する運送会社は,金沢市内でも木越の近くと聞いたようにも思います。木越というのは金沢東インターの近くで,その後に瑞樹団地という住宅地もできていますが,佐川急便の近くでもありました。 被告発人安田敏が私に,金沢市場輸送の山田さんがその後に始めた運送会社で,しばらく働いていたというのも,場所が木越という話でした。運送会社があるような場所として考えられたのは,木越でも河北郡内灘町との間で,ちょうどその辺りには被告発人浜口卓也の浜口商運の会社がありました。 浜口商運 - Google 検索 https://t.co/f0pI29A2q9 数年ぶりに浜口商運で検索をしてみると,以前と同じような求人募集の情報だけが集中して出てきましたが,代表者の名前は見当たらず,以前と同じような建物の写真は見当たりました。もう何年前かと思いますが,当時と変わらぬGoogle検索の結果になります。 大網商事 - Google 検索 https://t.co/iHU3nsnA9l 大網商事でも同様に検索をしてみたところ,2件ほど以前と同じような求人募集の情報が出てきましたが,2015年11月辺りの情報で止まっているようです。被告発人大網健二の兄,関係者OSNの鳶職の有限会社になります。 2月3日に出発した市場急配センターでの九州福岡市へのミールを運んだ運行は,事前の2月1日に被告発人安田繁克が不自然な参上をしたこと,当日の2月3日に,被害者安藤文さんが裏駐車場の駐車をやめたことなどでも,私に大きな影響を与え,綿密に練られた計画性を窺わせる重大な事実です。 はっきり指摘をしておきますが,中西運輸商で私に掛けられた保険金が目的で,一連の被害者安藤文さんを被害者に巻き込んだ私こと廣野秀樹に対する保険金目的殺害の計画性がありうるところであり,徹底した捜査は,もうずっと昔に御庁つまり金沢地方検察庁にもお願いをしたいたはずです。 YTについては,被告発人安田敏とも私の東力のアパートで直接出会った面識がありましたが,その後に聞いた話では,被告発人浜口卓也とも商売関係での付き合いがあり,一緒に飲みに行ったというような話も聞いていました。 この殺人計画が仮に事実であるとすれば,悪質の極みであり,関係者全員を無期懲役刑に処するべきだと,前にも書いたように思いますが,改めて申し添えをしておきます。重ねておきますが,二度と社会に戻ることのない無期懲役刑になります。 ことの重大さに比較し,確証を持てないのでYTのことは,仮名としてきました。確証が持てず,被疑者だと決めつけられないのも事実になります。被告発人安田繁克のことなど接点はありますが,間接的な関与になるので,重ねておきますが,殺人計画の共犯者とは,はるかに断定ができません。 明らかに虚偽の事実を私に吹き込んだと思われる被告発人浜口卓也とは事情も違います。被害者安藤文さんが被告発人安田繁克と交際していたという事実ではない可能性の高い話を,弁当の具体的事実を交え,私に最初に吹き込んだのが被告発人浜口卓也になります。1月21日の夜のことです。 何のためにありもしない事実をでっち上げたのかという疑惑から始まる問題になりますが,本件殺人未遂事件としての真相解明には欠かすことのできないのが被告発人とした被告発人浜口卓也のことで,これは被告発人大網健二との関わりも大きなものとなります。 その後の関係は全く確認をしていませんが,被告発人大網健二は,ちょうど一年ほど前の昭和59年4月頃の金沢市場輸送の入社と同じく,少し期間は短く6月頃までだったと思いますが,私の紹介で中西運輸商に入社し,4トン車で長距離運転手の仕事をしていました。 金沢市場輸送の竹沢俊寿社長は,私に中西運輸商の社長の窮地をお金で救ってやったと私に何度か話したことがあり,その中西運輸商の社長,中西富も私に対して,金沢市場輸送の竹沢俊寿の話題で,意味ありげな苦笑いの表情を見せたことがありました。七尾市石崎町出身という中西の社長になります。 中西運輸商では生命の危険を感じる運行が普通にありました。当時は若気の至りというのか,あえてその今で言うブラック企業性に飛び込んでいた私ですが,事故死で保険金が入る可能性が高いとして,会社で保険金を掛けられていた可能性はあると思います。警察,検察では確認済みのこととも思います。 中西運輸商はそのブラック企業性と事故の多さで,佐川急便の広島・九州便から切られたと聞いていました。九州の運転手が大半以上だった中西運輸商ですが,終わりの頃は,今で言うブラック企業性で,大きな暴力団から脅しを掛けられていたという話もありました。 身内思いで近親愛が強いとも感じた七尾市石崎町出身の中西運輸商の社長,中西冨になりますが,稼げるときに思いっきり稼いで,その後は稼いだ金で悠々自適の生活をするという人生設計が,当時は社会経験が乏しかった私にもうかがえるところの公明正大な露骨さがありました。 一枚かんだのは後発の被告発人松平日出男だった可能性もありそうに思えるところがあります。被告発人松平日出男も中古車販売の経営の経験とともに,車の保険に関しても精通していたらしく金沢市場輸送の保険の問題も一手に担当していた様子です。能生町と北九州の事故のことがありました。 これも過去の記録では再三指摘してきたところと思います。中西運輸商の延長上に保険金目的の私に対する殺人計画があり,それに被害者安藤文さんが巻き込まれた可能性というのは,徹底した捜査と事実であれば苛烈を極める無期懲役刑の処罰が金沢地方検察庁に求められる公益性になります。 === 平成4年4月1日の傷害・準強姦事件 === ==== ====